真田丸  心眼寺の段丘東 玉造駅側  三光神社

心残りだった心眼寺の反対側(東)にある三光神社へ(場所はここ)。

ただし真田丸の正確な位置は未確定のようで、私の独りよがりの満足かも知れません。むしろ心眼寺前の明星学園のグラウンドあたりも有力候補とも言います。

こちらの方は既に運動場と開削されてしまっていますのでその面影はありません。


心眼寺から後方の小山の向こう側にある三光神社は何と言っても後世に改修がされているとはいえ数ある「真田の抜け道」の中でも最も説得力のありそうなそれがあるのです。

しかし戦時中の混乱期以前からこの坑道はあったそうで、石垣によって側壁を強化した本格的なもの。入ってスグに崩落個所があってその先のまともな調査はされていないようです。


外堀の先に露出した「出城」ともいうべき真田丸は徳川軍の先鋒を一手に引き受けるという立地ですので、その保険としてトンネルを掘ったということは十分推測できるところです。ただし、少なくともトンネルの到達距離を空堀内側までと考えて100mはありそうですので短時間に完成していたかは疑問になります。


昨日も記しましたように真田信繫にとっては殆ど勝ち戦の「冬の陣」。徳川軍をてんてこ舞させました。

徳川勢総数は20万とも。

その総数で難攻不落とも思える大坂城の唯一の弱点と思われた「南方面」の攻城に思わぬ難儀をした家康は早々に和議を提案します。大坂城の戦(いくさ)ド素人の淀殿もこれ幸いと合意して終了。信繫苦心の工作物、真田丸はあっけなく徳川の手に渡って破壊されています。信繫としては歯がゆかったでしょう。


家康は20万人の将兵に厳冬期に城を包囲させ、力攻めにする不効率よりも、次の手、今考えれば堀の埋め立てと曲輪の取り壊しの後に取り掛かった「夏の陣」を描いていたのでしょうね。


一番最後の画像は大坂冬の陣図屏風(東京国立博物館所蔵)よりコピー。

これは水堀ですので真田丸とは逆側の図。画像で描かれている塹壕を掘って待機する様子が描かれていますが、戦場にてこの塹壕堀りが導入された例として世界的に画期的な戦闘であったといわれているようです。鉄砲の狙撃あるいは精度の荒い大筒から身を守るためのもの。しかし時代の変遷により最近の戦争では塹壕~タコ壺ともいいました~は殆ど無力となりました。


⑨お米屋さんの向かいの山が三光神社。⑩⑪⑫となります。