久々玉造 2016大河現場を再確認  真田丸 心眼寺

以前は雨中の大阪でした。

時間も制約される中思いつきだけで、大坂城から徒歩で向かった真田丸(のあったであろう場所)。

なかばくさくさの思いでこの付近を通行人に聞き聞きしながらやってきて「心眼寺」というお寺さんのみをぶらついたところであとは諦めの体で帰ったことを思い出します。

天気がよくなければヤル気も失せますね。


というところで再訪です。その日のお天気は抜群、五月晴れでした。かといってどちらもゆっくりできないのが遠征の不利。

というか大阪の中心地にいるというのは遠方から来て右も左もわからない者にとっては少々不安ですからね。

特に車で大阪市中に出入りする際は朝夕の渋滞発生時は避けたいものです。


「真田丸」、これは何と言っても2016年の大河ドラマのタイトル名です。私は春から日曜よる8時にはあそこのチャンネルは寄り付きもしませんでしたが、来春には、テレビ坊主として張切ってそれを視聴しようと毎週スタンバイする予定です。

その名は大坂冬の陣、慶長十九年(1614)に真田信繁が大坂城の弱点平野口に備えた出曲輪の通称。円形の高台をイメージしますね。九度山での蟄居生活を脱出して招聘された大坂城に入った真田信繫は城の北側の淀川等の河川を天然の要害とした城の堅さに反して、南側の平坦部、空堀のみの外郭からの攻め手を意識してこちらの「笹山」という丘に目をつけたとのこと。

航空図からいえば黄色の円形、特に神社がある緑の濃い部分をその「丸」の本郭を想像します。

現在の「空堀商店街」から玉造駅にかけてあった惣構の空堀の外にある「笹山」の出城は東西200m、三日月型をして東西にそれぞれ1つづつの曲輪を設けていました。


大坂城へは惣構の空堀に土橋をかけて結ばれていたといいます。3000の兵であの広範囲を守り徳川方(前田利常・井伊直孝・松平忠直)の総攻撃に耐え、追い払っています。


現地は殆ど住宅街。学校敷地と寺が各所にありますが、ここが「真田丸」であったなどということは、普通に通行していたらまったく想像だにできない場所です。ただし「高低差」の存在、坂と階段が周囲に見えますね。

当時は高層建築物といえば大坂城のみ。北の台地上にその雄姿が見えていたことでしょう。


前回行った心眼寺から訪問しましたが、内部は一新、あらたに石碑やら案内板が充実し、あたかも来年の主役の登場に備えるが如くでした。やはり時間の経過により史跡の面影も変わるものです。


最後の画像が真田丸よりさらに南側にある真田丸公園(場所はここ)。

出丸のさらに南に出張った感じの高台ですが、こちらで徳川勢を挑発したのち「笹山」の城塞、真田丸に逃げ込んで誘導し、鉄砲の一斉射撃を食らわしたというところ、想像できますね。