ガキと坊主の与太にはつきあいきれない  桃配山

関ヶ原で東軍が勝った「理由」。

その手の事物は後世になって色々なことが言われて、アレコレあげていけばキリが無いですね。

その推測を「たられば」含めて想像するのがまた面白いところなのですが・・・

勝負事は「時の運」ということもありますし。

 

しかし、やはり私は一言で言って大将の「役者の違い」がその結果に現われたのではないかと思います。

東軍は御存知徳川家康の一枚看板であったのに対して、西軍といえば石田三成が実質上の総大将であることは誰の目から見てもそう思えたのにかかわらず、三成は自身の不人気を知っていて安国寺恵瓊の智慧を借りて毛利輝元を総大将に担ぎ出します。

 

当時家康は事前に所領安堵と拡大を餌に、見え見えの内応依頼する書面をいたるところに送りつけていて、西軍諸侯の中でも誰がどう転ぶかまったく疑心暗鬼の状況に陥らせていたのです。

特に毛利家内(吉川広家・小早川秀秋)も同様で、「三本の矢」はもはや1つにまとまっていなかったのでした。

総大将を一旦受けはした毛利輝元ですが大坂城に「秀頼を守る」を名目に籠ったきり。代わりに名代として養子の毛利秀元を総大将として出陣させています。


その時の毛利秀元の年齢は21歳。小早川秀秋も18歳。殆ど毛利家ヤル気無し状態。そこに吉川広家は危惧の念を抱いて、ちゃっかり東軍に内応していました。ここで世に言う「宰相殿の空弁当」と揶揄される「事件」が起こったのでした。南宮山に布陣した毛利秀元軍の進路に吉川軍が陣を敷いて動かないという作戦(結果的にそうなった)で当然に毛利軍は山を降りられませんでした。

要は本戦が始まっている関ヶ原、目の前の家康陣の旗印目がけて雪崩降りるといった戦の本望が成し遂げられなかったのでした。長宗我部盛親がその際、使者を出して伺いをたてると「弁当喰ってる」と言ったとか・・・苦しい言い訳は恥ずかしいものです。歴史に残ってしまうほどです。

 

家康の陣は桃配山。毛利軍が陣取る南宮山と関ヶ原本戦会場の間ということですね(場所はここ)。

まるで吉川が毛利軍を一手に引き止められる事を知っていたが如くの余裕の陣です。この山はそう高い山ではありませんから、

毛利・吉川・長束・安国寺が突進したら相当危ういものがあったでしょう。

 

さて、そのように関ヶ原西軍の大将は名代。

それも家康からすれば、戦も知らぬ「はなたれ小僧」、ガキの使い程度レベルにしか感じていなかったでしょう。

そして石田三成にまともに味方した武将といえば安国寺恵瓊、小西行長、大谷吉継が名が上がるところですが、良く見れば武闘派からしてみればいかにも事務屋揃い。

 

出自もそもそもの武家の家で育った人では無く、秀吉に見込まれて出世した人たち。

いわば三成は茶坊主、安国寺は坊さん、小西は薬屋、大谷は出自は不詳ながら本願寺系(大谷氏)とも言いますね。

西軍お歴々の秀吉恩顧の武将たちでさえ「ガキと坊主」主体の争いに「付き合っていられない」というのが本音だったでしょう。特に秀頼一辺倒の武人加藤清正など肥後に居たっきり。

双方からの勧誘があったのですが、動きませんでした。


家康の本望は加藤がむしろ動かないで九州に居座ってくれたことだったのですね。加藤と隣国を治めていた小西や石田との険悪な仲を衝いての家康の勧誘でしたが、彼がもし秀頼を担いで西軍の総大将として出ていたら東軍に居た盟友の福島正則はじめ殆どの秀吉の息がかかった武将は西になびくことは必定、東軍は

戦闘態勢すら整えられなかったかも知れません。


要は家康は戦いの大義を対石田三成としていたことが勝利を呼び込んだのです。関ヶ原は「石田の戦争」だったわけで彼は家康の陽動にのせられたのでした。

また、毛利でなく加藤が大坂に入り秀頼を頂いて号令する力量があれば天下の状勢は変わったでしょう。

それができなかったことがゆくゆく加藤家改易へと繋がっていきます。すべてが家康中心に回って行くご時世となります。