「ごめんなさい」に「自虐」を誇張する世風

世の俗習です。交通事故、転じて法律的に「自己の過失」があって器物損壊や人身傷害が発生した場合、「自分からは決して謝ってはならない」ということを耳にしたことがあります。

 

損得勘定世界であとあとの紛糾や訴訟発展の事を考え、とにかく「自分の非は認めない」という作戦です。

自分の過失よりも相手の過失の方を重大責任にするためですね。

 

最近では過失ではなく故意で行った事に対して「あいまい」にして、非を認めず、責任をとらず、社会からもそれで赦されるという事案もよく見聞きします。

 

歴史上日本の行っていた国レベルの喧嘩(戦争)の発端はほとんど奇襲攻撃ですので「故意」になります。まちがって軍隊を派遣したり爆弾を落としたのではありません。

人対人でしたら歴とした殺人ですからお縄を頂戴するワケですが、国がやったことだと結構あいまいになってしまうものです。

 

若い人たちの発想は「自分たちの行為(仕事)ではない」というところが主たるその謝罪に対する「違和感」だと思いますが、そんなに逼迫した思いは要らないと思いますよ。

私たちの先達もお国の政策によって死地に向かわされたのであって本当は自身の心からの意思で父母兄弟と分かれたのではありません。

「華々しくお国のために死ぬ」などという思想はお国の教育により洗脳されていたにすぎません。当時の日本は戦争をするためにあらゆる機関がその目的に向かっていた(挙国一致)のですから。戦争高揚の精神は致し方なかったのです。

 

その方策を建てたのは政治家と軍人ですね。「国」なのです。

そういう人たちを制約して、もしやまた、あのようなことが起こらないよう国民を守るために作られたのが憲法であって、対外的に政治家が発信するのが過去の戦争責任に対する「反省」なのです。何も国民一同未来永劫「頭を下げろ」的感覚で周囲の国が言っているのではなく、今のお国の政治家に昔と変わらずにその意思表明(ごめんなさい)をしてもらいたいというところなのです。

 

戦後生まれの私たちのスタンスはとにかく歴史を知って「人間の性質」を深く考えて悪しきことは素直に反省することですね。

ただし私自身のことになると「まったくお粗末」の一語に尽きることは言うまでもないことですが・・・。御開祖の「悪人正機」のみが自己肯定の理ですから。

 

とにかく「ごめんなさい」が自然に口から出てこない人が多くなったそうです。また反省したりそれを促そうとすると「自虐」と言われて逆に非難される世の中になっているようですね。

 

粉飾決算という語を聞きます。

この語は結構曖昧な語であって故意だとアウトで過失(「不適切な記述」)だとセーフのようですね。

だいたい「人対人」のおカネの出し入れの報告についてだと、その手の行為は「語り、インチキ、デタラメ、ペテン」の類で「詐欺罪」です。ところが会社がその行為をして、会社規模が大きくてそれまで業界の「顔役」の実績があったりすると、まず御咎め無しというのがパターン。利益が出ていれば銀行は潰さないのです。

 

かつてはオリンパスの粉飾がセーフでホリエモンのライブドアがアウトでした。どう良くてどう悪いかとても曖昧を感じました。

今、世間のお騒がせはあの天下の東芝。

かなり内部ではお友達取締役たちの「なあなあ」社風と周囲の「まあまあ」がプンプン臭ってきますが、きっと御咎め無しに終結するのでしょうね。

まぁ「二度とこのようなことがないように」の反省文と、数人の首の据替があるのでしょうが。

 

そのように日本人はあまり他人に強く謝罪を強要したりしない国民性なのです。できれば示談や穏便(しゃんしゃん総会・・・)なる手仕舞を好むのです。

ただし最近になって土下座ブーム(強要)が起こっていました。あまりにも浅はかで見苦しいことからそろそろあの蛮行は下火になると思いますが、これは一部の他者へのウケ狙いであって、いたって些末なこと。

 

とにかく気軽に「ごめんなさい」が言えるようになりたいですね。私一人の人間というものが、生活しているだけで、生かされているだけで、道を歩いただけで、何かしら人の御厄介になって迷惑を提供しているのですから。

あと会社組織、お国の政は万人にフェアで願いたいですね。

 

本山阿弥陀堂の現状と標語。

「ありがとうとごめんなさい」の意。「なんまんだぶ」