焼失のあと場所を変えて建てられた本能寺

昨日は駿河清水の同名のお寺について記しましたので続けて、京都の本能寺について記します。

無理もないですが、人は建物があるか(残っているか)無いのかによってものの良しあしを判断する傾向があります。

 

遠方の地に行って「○○城、△△寺の詳しい位置」等についてちょいとさりげなく地元の方に聞くということはよくありますね。声をかけるのが一番早いということと、その地の人間性を感じるには一番です。そんな時、質問事項についてご存知ある方でも、「そんなん、ないない けったいなこときくなぁ~ あんただれや・・・」関西では逆に質問が返ってくるくらいに珍しがられてしまいます。

 

私の趣向は歴史的遺構が「かつてあった場所」でまったくOK。その場に関連の遺構が「あるかないか」はそう気にしません。

できれば建物の礎石や土塁、堀の一つでも姿をのこしていてこの眼で確認できることほど素晴らしいことはありませんが付近の住民や町の有志、行政でも、地元の歴史を残さなくてはならないという気持ちの表れでしょうが、標石等を建てて未来の人たちや来訪者に知らせたいという気持ちがイイですね。

確証が無かったら「推定地」として記せば問題なし。

皆の眼に触れればその歴史への理解は深まり、テーマを発案できましょう。

 

相良でいえば高坂弾正屋敷跡に小島松園波津陣屋等々。

街中に歴史紹介の石碑を建ててウォーキングポイントとしてもイイかも。

 

さて、本能寺と言えばまず天正十年(1582)の件、信長の上洛宿舎としていた本能寺に明智光秀の謀反の兵が押し寄せて、寺とともに信長が滅んだ寺を思います。

洛中の京都人に、ただし街を歩いている人は観光客ばかりですが、その寺の場所を聞いたとしたら、まずは御池寺町のことを指していると解すでしょう。

 

しかしそちらのお寺は「天正十年」の寺ではありませんね。

当たり前といったら当たり前、兵火によって灰燼に帰しているのですから、再建築であることはわかります。

しかしこちらの寺は同時に再建場の敷地を秀吉に与えられて、寺地は以前の場所ではありません。

 

それではその位置がどちらかといえば、以前ブログ、京都文化博物館のところで記した「石標だけ」の本能寺のことです

(場所はここ)。

その場所に再建されていたとすればインパクトが違ったのですがね。

近頃の発掘調査の際、焼け瓦が出たりしていますね。現在は学校、特養ホーム、住宅が立ち並んでいます。あの分ではこれ以上の発掘調査を行うことはできないでしょう。

やはり「一所懸命」の字の如く、人の居た場所そのものに歴史への実感が湧きますね。

 

①は京都文化博物館と②次回の企画。

道が細くて通行人自転車・バイクの往来多し。徒歩が一番ですが、ここいらはコイン駐車場がいたるところにあって便利。

ただし初めての人は歩きが無難ですね。

あの四つ角の多い街区を走るには神経を使います。もっとも歩けば歩いたで車・バイク・自転車に気を使います。どこかに車を停めてひたすら歩き回るのが京都市内の遊び方。

③が御池寺町に移された本能寺。④~が現蛸薬師通りにある「天正十年」の本能寺跡。住所、表札に「元本能寺」とあります。

一番最後の画像がその区画にあった「坊主バー」オマケ。