町立浜岡病院が開院したのは1986年でそう歴史のある施設ではありません。あの時の市町村合併により名称が「御前崎」となりました。
すべて私がこの地区に居ない頃の出来事で気が付いたらその「病院があった」くらいの感覚でしょうか。しかし隣町の病院ということもあり、また介護施設も隣接して建てられてから知り合い縁者がお世話になることも多く、度々この「辻」へは顔を出しています。
バスの便が少なく、やたらと不便な場所ですので先日は友人をこの地へ送り、好天ということもあり彼の所用が済むまで外で待つこととしました。
まずこの病院の北側に小高い丘があってその頂上には祠が建っていることがわかります。それが大山不動尊(場所はここ)。
地元では「御前崎市の富士山が見える場所」の一つとしての宣伝文句を聞いています。
しかし、此の地はどう考えても「高天神城攻防」において武田方兵糧の中継基地、相良城とのほぼ中間点となります。
上記コースを辿る場合まずは塩買坂を思い浮かべますが、こちらは駿河湾沿いに行く道筋です。
この道は以前、ブログで紹介しました比木第三の城「城ケ峯」の直下の街道の延長で、ストレートで横須賀城方向に向かう事が出来、「大坂」辺りで進路を北に辿れば高天神城へも。
例の桜ケ池東の「源吾の首切坂」が途中にあります。
こちらの地図にはその経路が記してありますので参考まで。
地元の古字は「七ツ山」。
私はこの街道筋、特に病院前の辻道を見下ろす丘には城砦の類があったとしても不思議はないと考えていましたのでその待ち時間に周辺を歩きました。
ところがその山の裏側は地区避難場所②として削平されまた、土砂の採石場③として切り崩されていました。
浜岡の海岸というと「砂丘」を思いおこすでしょうが、この小山はやはり海岸線の後退、隆起の歴史を改めて思い、完全に「砂丘」であることがわかります。
現状の海岸から砂を採取することはできませんが、この山を地権者から買い取れば、「今は良質な山砂」として流通できるのかと想像できます。
祠のある櫓のある場所は櫓台、狼煙台の推測です。
土砂採取場を左手に右手は竹藪という細道を東方向に歩けば、土塁風の段差の風情と曲輪風策平地。現状竹藪と墓地ですが、ますます砦のような遺構を感じてしまいました。
以前、どこかで触れたことがありましたが、この町の教育委員会というものからはあまりヤル気というものが伝わってきません。発掘遺物や研究成果を市民等に展示する機会、施設について問い合わせたことがありましたが、まったく「ヤル気無し」の返答しか返ってこなかったことがありました。
まぁその手の面倒な質問には「ありません」と、けんもほろろが一番でしょうが。
あの素晴らしい遺構を残す八幡平の城を持つ御前崎市ですが、その良さを広くアピールできない、あるいはしないという姿もどうも腑に落ちません。
というワケでこの地が何らかの遺構であるとかないとか、は勿論面倒な事は無視して、当然の如く山はぶっ壊して崩し、土砂は売り払い平地にしたら区分変更して住居地にすれば・・・如くの「皮算用」などと言ったら、叱られるのでしょうね。
さて、この山が「遺構」であるなどという推測は立地からして「そうかも」という私の勝手な思いと、段差の「こじ付け」の可能性はありますが、この病院坂の前は・・・(かつて行った学校の近くに「横溝正史」の書斎があったのとあまりに印象的でしたので記憶にありますが、その語、「病院坂の首縊りの家」などという小説を思い出します)・・「血洗池」と呼ばれる場所があります。まさに病院の面前、祠へ上る階段から開発された避難場への道路への間です。よく見ると杉の木らしい中程度の高さの木が2本あってその間辺りです。今は池は見当たらず草ボウボウですが古くから地元では禁忌の場だったのでした。
80歳くらいの方がこの地に嫁に来た際、この道は台八車一台が通れるほどの道で、周囲には家など片手で数えるほど。
嫁入りして義理の祖父が念を押したのはその「血洗池」には「近づくな」と。刀に付いた血をその池で洗ったといいますが、前述の渥美源吾「首取坂」ともごく近い場所でもあって、その「こじつけ」類推がしやすい場所でもあります。
その辺りの伝承を地元史跡として教育委員会は把握しているのかどうかはともかくとして、この街道周辺は今一度洗い直してみる必要はありますね。ただただそういう古い伝承と場所は残していって欲しい、それだけですね。
たとえば「病院坂の血洗池」。現代と古い名称のマッチングです。
⑦は想定する大手道。⑧が病院で⑨から望んだところ。⑨の矢印辺りに血洗池があったとのこと。探索は真冬に。
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福田伸次 (土曜日, 23 1月 2016 15:08)
こんにちわ、御前崎市在住の福田と申します。
ここ大山不動尊について検索していたところ興味深い内容に
感銘致しました。
住民のほとんどが何故あの場所に不動明王を祀ってあるのか?
気にも留めないのが不思議でなりません。
一度じっくり考えてみたいと思いました。
今井一光 (土曜日, 23 1月 2016 20:46)
ありがとうございます。
浜岡池新田の戦国期といえば、その名の通り、湖と湿地帯だったと思います。
御前崎病院の建つ丘陵がその湿地帯の西の端で、ちょうど東側の桜ケ池と対になるような
カタチです。当然に双方とも何らかの由縁ある施設があると考えるのがスジというものですね。部外者の身で私の思う推測話を記しましたが、今後地元の皆さんに御調査いただいて
確かな歴史を検証していただきたいと思います。