胃が痛くなる重大役回り 秀秋の監視役 奥平貞治

参加者それぞれの「家」の浮沈を左右した「関ヶ原」の戦後は家康にとっても人生最大のターニングポイントでもあったのですが、多くの参加者のうち西軍に加担したグループはまさに「地獄」を味わいました。

その戦の中でもその勝敗を断じると言ってもイイ大きなきっかけが金吾の松尾山でした。

 

家康も三成もそこのところは当所からキーポイントであることは承知していて戦前からの懐柔工作と念押しは半端では無かったと思います。

 

後世のフィクション毛利家の「三本の矢」はまことしやかに伝わっていますが、そのうちの一家「小早川」は名門家。

そこに黒田官兵衛の仲介で養子に送り込まれたのが秀頼誕生で居場所が無くなった秀秋でした。彼は高台院(秀吉の正室)の兄、木下家定の五男で秀吉の跡目候補として養子入りしていた人でした。

 

そういった状況の一部始終を見ていた三成は不安はあるもスジから言って西軍は間違いないモノと踏んでいたでしょうね。

結果的にそこが命取りとなったのですが、関ヶ原本戦直前の伏見城戦では西軍の副将として城を包囲し、家康の腹心、鳥居元忠を討取っているくらいでしたから。

 

小早川家の名跡を背負って立った金吾十八歳は松尾山で大いに悩んだ挙句、15000の大軍を先の伏見城では友軍だった大谷隊の横腹目がけて雪崩降りることになります。気の毒だったのは大谷吉継ですね。

吉継は当初から金吾の裏切りは想定内だったようです。

その際の予防線として友軍を予め配備していたのですが、彼らもが反転して自軍に向かってくることまでは考えが及ばなかったようです。一つの大きな歯車が逆回りし出すとすべてが反転してしまうという恐ろしさですね。

 

さて、家康はこの金吾の松尾山に一人の軍監役、東軍参加指南役を付けていました。この人こそ奥平貞治です。

家康がキーマンとして押さえ、是が非でも自軍に招聘したい金吾を「誘導する」大役を任せて派遣させたということは余程の信頼というものが覗えます。

奥平家と言えばもう一つの家康のキーポイントと言える、長篠設楽原の戦いの前哨戦の長篠城籠城戦で大いに功績のあった家系ですね。家康は勿論、信長からも大絶賛されています。

奥平の名は家康の「ここぞ」という時の勝利にそっと影の様に付いてきた名だったのです。

 

しかし奥平貞治は松尾山の金吾以上に焦燥感はあったに違いありません。どう説得しようが金吾はだんまりと傍観を続けるばかり、戦場に目をやれば、一進一退であるも東軍不利の状況も覗え、本陣の家康の激怒が脳裏をよぎったでしょう。

このままでは戦場で東西どちらが勝利しても立場は最悪、一番酷い状況は金吾が「やっぱり西軍」などと言い出した時です。

そうなれば捕縛されて真っ先に殺されるでしょうし、一矢を報いるためその時に備えて、金吾とは刺違えるくらいの気持ちでいたでしょうね。

 

例の家康の機転というかヤケクソの大筒撃ち掛けによって金吾はようやく重い腰を挙げ「敵は大谷刑部」目がけての軍配が発せられる事になったものの、歓びも束の間、小早川隊の先鋒の将の松野重元は、「此の期において小僧っ子の気まぐれに付いていけぬ」と思ったか、戦線離脱。奥平貞治は結局、指揮系不在の松野隊を鼓舞しながら先頭で戦うことになりました。

 

ちなみにその逃亡の松野重元の態度については意外や好評価。

主家へ忠義者としての立場はあっぱれと、田中吉政から引っ張られています。

金吾は勝ち戦に貢献したにもかかわらずその後、亡くなるまでの二年間は後ろ指を差され続けたといいます。死因は鬱からの衰弱とも。

突然の反転はどちらからも卑怯とみなされてしまうのですね。

 

奥平貞治は戦に生き残ったとしても主君家康から金吾の説得遅延に叱責を受けることは十分予想できます。

やれやれ」の思いも半分、そして名誉挽回と不慣れな友軍を率いての激戦もあって致命傷を受けてしまいます。

何しろ大谷隊もその裏切り、恨み骨髄に徹し、反撃は苛烈だったといいます。

 

奥平貞治の名は奥平家多々人物ある中、覚えやすい名です。

彼の墓は伊吹山の麓。関ヶ原から近江に抜ける365号線と並行して走る脇道、おそらく古道でしょう、「玉村」という住宅地。とはいえ判りづらい場所にあります(場所はここ)。

家紋の「軍配団扇」の幟がなびいていました。