究極の墳墓 大地 → 海 少々心残り

昨日は最近の東京での葬儀事情について、私の感じたことを記させていただきました。

「坊さん不要」の傾向は結局はこれまでお寺や坊さんがやってきたこと、その撒いた種からの結果ではあるのでしょう。

格式ばった葬儀式を無しにして最近よく耳にするのは「お別れの会」と。

勿論面倒くさそうな?「坊さん」と煩わしい?「システム」も無しの様子。

 

それぞれの価値感の問題ではありますが、一部傾向としてこれまでの「寺」の存在に価値意識を持てないということからか、その教義に頼らない方向を選択されているということ。

信教の自由は保障された権利ですので、「信じない事」も自由。現代はまさに何でもアリの時代です。

 

亡き人の葬儀が終了し、遺骨は四十九日法要という儀式の後に代々の墓地に納めるというのが一般的な流れではありますが、上記の如く「お寺とのつきあい」を持たない方たちのその方向はズバリ「散骨」。

各所でいい面悪い面、反対意見賛成意見、色々ありますが、今のところ「樹木葬」と「海洋散骨」が代表的なところ。


寺の檀家システムからは離れていることは共通しますが樹木葬は墓石が木に変わっただけですね。ところが海洋散骨はその礼拝の対象があまりにも大きすぎて漠然としています。

それでも人の「海へ」という願望は非常に大きく、たとえば東京湾あたりでのその需要は最近殊に増えているようで、後発組の業者もまたぞろその世界に参戦しているようです。

 

真宗の御開祖、親鸞聖人の遺言、「閉眼せば鴨川の魚に与えよ」の通り、私ども真宗ではその海洋散骨にはまったく中立的立場でいます。しかしそうではあっても、阿弥陀仏への信心は踏襲していって欲しいとは思っていますが、元々そのような傾向にしたのは、寺との関わりから解放されることを主眼に置いていると思いますので、一言で「無神論的」傾向なのかも知れません。

 

どちらにせよ「寺と坊主への不信」がそうさせたのでしょうから坊さんは自業自得として受け入れなくてはなりませんね。

 

さて、昨日は午前の法要が終わったあと、知り合いのお誘いである港まで出向きました。

その船長さんが海洋散骨を手掛けています。

以前から「オプション」設定で坊さんを呼べるようにしてあるので、「その時はよろしく」と言われていましたがこれまで、ずっとそういう機会はなく、「それも当然だろう」とは思っていました。

ところが今回、某家の散骨のための坊さんの乗船依頼があって私に声がかかったというワケです。


 法衣での乗船はいかにも仰々しいということと周囲の目を憚って私服にて乗船。船内で事前に着替えておきました。

 

初めてお会いする遠方(海の無い関東地方の県)より来られた方たちの家の宗旨は本来は曹洞宗とのこと。

念のため、当方の宗旨等を説明、自己紹介し、了承を得ました。

 

午前中の海は無風でほとんど凪でしたが、出航の夕刻近くは沖合は風びゅーびゅー。

予測はつきましたが皆さん限界を超えていたようでしたね。

静かな海は美しく輝いていますが、一旦荒れれば時として牙を剥き、人を寄せつけません。コンディションは最悪でした。

思うに、壮大なれど過度の憧れも禁物ということかも知れませんね。だいぶイメージは違ったと思います。

 

荒れ気味の海上での短時間での会話で詳細を窺う事はできませんでしたが、それぞれの事情があるようですね。

一応、漠然とした礼拝対象(海)に心細くなったとしたら「当山の阿弥陀さんに気軽に手を合わせに来てください」といって別れました。・・・・合掌。