和気藹々の「藹」を想う 春から初夏

本年四月は例年と比して忙し感ありますね。

そのわりには画像をアップしていますので他所から見れば「遊び感」満載風で、暇人坊主の余生を醸し出しているかもしれませんが・・・。


上記①②は牧之原台地、朝比奈と比木の境界辺りの茶畑の様子ですが、「手摘み」既に始まっています。

農家としては機械摘みよりは取引値が高いので手摘みへの魅力はありますが、何せ機械使用と比べれば作業性が雲泥の差、最近は労働力不足に、そもそもの茶の取引値の下落によって「手摘み」オンリーの農家は少なくなってきたようです。かといって「手摘み」は高級茶葉として需要もあるそうで、まったく止めてしまうワケにもいかずに、現在も親類総動員を掛けて茶畑に取りついている農家もあります。

手摘みも昔ほど「良くない」と皆さん仰っていますね。

②は列の左右の淵を手摘みにして、中央を機械を使うよう残してあるのかと思います。

それにしても勢いよく茶の新芽が伸び出しました。触れてみると本当に柔らかさやほんのり感、いわゆる「海松」や「みるい」という語を思い出させます。


茶の本格的シーズンに入る4月下旬以降、畑仕事が増えてお寺の法事は少なくなる傾向です。お寺はGW頃にはゆっくりできるようになるのでしょうが、今年は特に3月以降今頃までは何かしら動いていました。1.2月の寒さを避ける傾向でみなさん「春を待ち、行動する」というパターンですね。


茶畑の様子など上記の画像は午前の法事が終了して、午後から動き出してからの図でした。
茶畑が土曜日、③の図が昨日の日曜日でした。


③は檀家さんの踊りの先生が、生徒さんの「けいこ」を重ねた様子を発表するとの招集に応じて顔を出しました。春の装いで、題材も「あたたかさ」を演出していました。特に子供の発表は場を和やかな雰囲気にさせます。


さて、私の祖父の法名の銘々について良くその人の性質を捉えて深みのある字をあてるといったようなことを先日記しましたが、

その多種の法名の中に「藹」という字がありました。

あまり日頃は使用しない字で、書き方の説明としては①言ベンに「葛(くず)」あるいは②草冠に謁見・拝謁の「謁」と説明いたしますが、①の方が簡単に説明はしやすいかも知れません。

葛飾の「カツ」が馴染みがありますので。


「藹」の読みは「アイ」。

手っ取り早く記せば「わきあいあい」と言えば誰もが知っている4文字熟語。

辞書には「草木が盛んに茂るさま 転じて おだやかなさま 」で、訓読みすれば「おだやか」ですね。


真宗には「自然法爾」という御開祖の言葉があります。開祖の善知識の法然さんが源空→法然としたのはその語の上下逆の「法爾自然」からとも聞きます。

英語が入ってきた現代、「ネイチャー」をその「自然」と訳するようになってからその語は人口に膾炙するようになりました。


ただし自然法爾は「じねん ほうに」であって今の様に「しぜん」とは発音しませんでした。真宗読みは「じねん」ですのでそう読む方がむしろ自然なのですがね。


「自然」は「おのずからしからしむ」。

「法爾」は「阿弥陀さんにおまかせ」。と考えればカンタンそうですがこれは真宗の神髄ともいえる「絶対他力」の真骨頂で、その奥はかなり深いものがあります。以下真宗聖典より感じだけ。左右は1ページをカットしたもので見にくいですが。

自らのはからいは捨てて「ありのまま」に如来さんの誓願のとおりに生かさせていただくというのがそれですね。

「自分のはからい」主体(煩悩のまま)で生きるその様を晒す私にとってこの言葉は重たくのしかかってきます。


「藹」についてはその親鸞さんの時代よりずっとあとになった中国の明代に「然」という字が6回登場する「六然」(りくぜん)の中に出てきます。


2つの対となった語の対比が3件あって計6個の「然」。

勝海舟も「そうありたい」と願ったその言葉は・・・


 自処超然    処人藹然

 有事斬然    無事澄然

 得意澹然    失意泰然


です。この「六然」の主眼は前の二つでしょう。

「自分のことは さておいて(とらわれずきびしく) 人に対しては藹然と」・・・

「藹」は、「和ませて楽しくさせる」。

今風に言えば「あったかい」ということでしょうか。


この語たちは「六然」でお調べいただければスグですのでここでは省略。ご興味のある方はどうぞ。

何事においても人はそう接する(然)ことができないということから重宝にされてきた言葉です。