村送り 村継は継送システム  本間謙斉の墓

善光寺の御開帳というものが始まりました。

私は「絶対秘仏」たるものの意味が今一つわかりませんが、その御本尊、「一光三尊阿弥陀如来像」のコピーは七年ごとに御開帳するという決まりが出来ているようです。

コピーといったら怒られましょう。鎌倉期の阿弥陀さん+2で重要文化財ですね。

 

上記阿弥陀さんの形式は「印」は多少違いますがわが真宗と同様に立像です。

よってコピー版を「前立本尊」と呼ぶのでしょう。

三尊形式は中尊に阿弥陀如来、そして観音菩薩・勢至菩薩がその脇を固めるという三尊形式。

 

時代の変遷で「一向専念無量寿仏」の思想がより真宗に徹底されるようになり、「一仏で脇ナシ」が私ども真宗の「姿」ではありますが、親鸞さんの時代は「三尊脇あり」が常道でした。

真宗の経典にも今なおその三尊を彷彿とさせる場面がありますね。当山の葬儀形式でいう式冒頭の「先請伽陀」にはモロにその「脇の仏」である「観音・勢至」の語が出てきました。

一仏とは言いながらしっかりと頻出してきますね。

 

聖徳太子の時代に天竺―百済経由で渡ってきたと言われる本尊は当時の有力者物部氏の「廃仏」圧力によって堀に投げ捨てられますが、「善光」が拾い上げて信州に持ち帰ったことから始まります。

 

親鸞さんも立ち寄ったという善光寺。

私は親に連れられて行ったのがはるか昔、堂内よりも蕎麦屋に入った思い出のみの記憶しかありません。

「絶対に拝むことは出来ない」という決まり事はどこかの時点で人が勝手に決めたことなのでしょうが(寺伝では阿弥陀さんが自分から隠れた・・・)、阿弥陀さんの尊顔に庶民が面と向かえないというのは少々疑問。

全国的にありがちな「秘仏」神秘主義ですが阿弥陀の教えからすれば当の阿弥陀さんも困惑しているのでは・・・と考えてしまいます。

 

さて、標記の「村継、村送り」は江戸期に確立した配送システム。特に民間レベルで物品等の配送システムも無くは無かったようですが、通常「村継、村送り」と言えば、「仏」(ホトケ)や人間あるいはそれらに関わる者の所有物の継送に関してです。

 

「仏」(ホトケ)といってもこれは行き倒れ等の死人病人罪人の他所者のことです。当家過去帖にも「行旅死亡」などという語が出てきます。

そして病人を村々バトンして出所に戻すというシステムが「村送り」です

これに関しては幕府が「越度」(落ち度)なきよう御触れしているようですね。人の行き来に関しては逃散による農地放棄と町の荒廃を防ぐために寺院管理(檀家登録)にして時期、確たる理由を求めるなど証文を保持させてのうえ承認していました。


ちなみに前述善光寺参りでの行旅中の行き倒れは少なくなく、信州への街道筋にはその手の無縁墓は多かったことと思われます。農閑期とは当然に冬場にはいりますので、役所許諾の旅立ちは当然に冬期。信州の冬の旅は命がけになるでしょう。

 

その証文通りの「在所」に送り返すことが幕府の命。案外と偽造や、紛失盗難等による口承が虚偽で出所への問い合わせで「当所に非ず」となって無縁となる仏(ホトケ)もあったと。

亡くなってしまえば村に埋葬し遺物のみを村継で送り返したようです。

 

当地塩買坂から新野方向に抜ける道に「医者墓様」という祠があります。名は「本間堂」(場所はここ)。

金沢の本間謙斉という旅の医者の墓です。

本間といえば浜岡に帰農した「高天神崩れ」を思いおこしますがそれとは違いますね。

昔は命日等に店が出て賑わったそうですが、今は祠そのものも荒れつつあります。私が行くと必ずこの祠から俊敏な小型動物がパニックって飛び出し谷を駆け降りていきます。まったくこっちの方が肝を潰します。

 

祠には医師鈴木東洋先生の筆による額が掛けられていました。

 

新野から間蔵坂トンネルを抜けて左が高橋の城(天ケ谷城平)の麓、その先を右に上って塩買坂方面へ。