問うは当座の恥、問わざるは末代の恥 「親友」

「先生と坊さん」は世間のことについては「何も知らない」とご指摘をうけることがあります。

私はちょこっと非礼を感じるこれほどのことを面と向かって言われたことはさすがにありませんが、本当によく耳にする言葉です(もしかしてホントは私の事だったりして・・・)。

 

まぁこの手の言葉は「後ろ指」的陰口の類ですから、御当人の耳にはそうは届かないものです。

かといって酷く的を外して逸脱した指摘でも無いというのがそれで、その標的となっている職種に足を踏み入れている私も、なるほどと思いつつ反省を促されているということは認識しています。

 

何故にして「何も知らない」と断ぜられるのかといえば、それらは「往々にして人の話に耳を傾けない独善的傾向がある」からだといわれています。

心当たりがあります。私は人の話を聞くことは嫌いではありませんが、少々「しゃべり過ぎ」の感。

「沈黙して耳を傾け頷き、時に笑顔でオウム返し」という聞き役の極意の通り心掛けたいところです。

 

さて、昨日の法要で五十回忌のご縁がありましたが、その方の法名が「釋親友」でした。

私の祖父によるものですが、あらためて祖父が名づけた法名は奥が深いと思った次第です。法要でも無い限り、まじまじと過去帳の法名を見入ることはまずありませんから、その意味に気付く機会はそうはありません。

 

『親友』なんて・・・と思う方もおられるでしょうが、この読みは「しんゆう」ではなく「しんぬ」。

意味は一般的にそう解されている「親しき友」ではなく「絶妙なる差配で人を導く人」=真宗では「善知識」と呼ばれています。

一般的な意の親友(しんゆう)はほとんど相手としては同格としての感覚ですが、親友(しんぬ)だと「師匠」レベルの感じもします。

 

善知識と言えば、親鸞さんが正信偈で名指しされた「七高僧」が思い浮かびますし、また浄土和讃の

 

「善知識にあうことも おしうることもまたかたし よくきくこともかたければ 信ずることもなおかたし 」

 

からその価値の重要性がわかります。

 

蓮如さんの御文二帖-11では浄土往生のための必須である五つのポイント「五重の義」について記しています。

 

「一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり」

 

善知識の導きは無くてはならないものの中、ウエィトは高目です。

そして善知識に出遭うことその十徳を仏教経典から

「寂静」「調伏」「惑除」「徳増」「有勇」「経富」「覚真」「善説」「悲深」「離退」

 

それらを具備する者が善知識。

 

お話が難しくなってしまいますのでぶっちゃけ、まずは「諸先輩」「父母・祖父母」をその先導者として考えるのが常道。

過去の経験(歴史)ほど耳を傾け自分の将来の糧にしなくてはならないということです。

 

もう「既にわかっている、迷いはない」というエライ人ほど「私がむしろ善知識」と思い込むフシ(独善)がありますので、他者からそう(何も知らない=独善)見られてしまうのです。

何かしら「人を案内する舟の船頭」の如く立場のある方はやはり「聞く耳」が重要なのですね。それには常に「私の善知識」というものを適宜見出して「自分から聞くこと」です。


エライ人は知らない事があってはならいという自負があって素直に聞くという耳がありません。ましてや批判的な「痛み」が伴えば耳を反らしたくなります。

結局「末代の恥」となってしまうということです。

それを恥と思わないというのが「厚顔無恥」。また大抵はある程度の権力志向ある方がその手のようですね。

 

②は菜っ葉の畑。③④⑤は小堤山、旧駿遠線の線路道近くから。桜の開花は5分~7分といったところでしょうか。