良薬の唐茶-コッヒィ-かうひい   ヘンミィ墓

静岡茶の低迷は色々な要素が重なってのことではありますが、やはり日本人の生活習慣に広く定着し日本茶に代わる「喫茶養生」でもあるコーヒーの存在は大きいですね。


緑茶はおカネを支払って飲むという感覚にない中、「おいしいコーヒーが飲みたい」などという声を多数聞くこともあって、時間調整やちょっとした休憩に喫茶店を利用すれば大抵がコーヒーですから。街に出ればコーヒーショップのチェーン店などまたぞろです。

ちなみに私の場合、家では「美味しいお茶が飲みたい」はあっても外へ出れば「コーヒー」になってしまいます。

家ではそうであっても家以外では緑茶を飲む機会はそうは無いのです。家庭オンリーということでしょうね。


これだけコーヒーが流行ったのはやはり当初は「長寿の良薬」(シーボルト)という触れ込みですね。ということで最初は徳川将軍家への献上品。唯一交流のあったオランダからの紹介でした。それ以前にもオランダ人が長崎出島にて一部の日本人相手にコーヒーを飲ませたという文献もあるようで、記録では1690年頃とのこと。

シーボルトより150年以上も前には日本に到着していたようです。


出島は江戸からすれば西国の果て。オランダ人が持ち込んだコーヒーが「薬」として表舞台に紹介されるまで相当の年月を要したのでした。

そのオランダ―長崎の船旅、長崎から江戸の陸路往復という長距離行脚、紆余曲折あったことでしょうね。


江戸将軍拝謁後の帰路、遠州掛川に、おそらくその長旅によって疲労困憊して行き倒れたのであろうオランダ人の墓があります。

「ゲイスベルト・ヘンミィ」という人です。70人にのぼったというオランダ貿易使節団は寛政十年(1798) のはじめに長崎の出島を出発して4月に江戸城で11代将軍徳川家斉に謁見、5月に帰途につきます。

6月に掛川宿の本陣林喜多左衛門方に投宿、ヘンミィ持病悪化し、6月8日に51歳で死去とあります。

日本式(浄土宗)の葬儀ののち天然寺に葬られました。


現在墓は道路脇にあって人通りも多数(場所はここ)。

目に留まりやすい場所ですので、掛川の町うちを時にちょろちょろしている私あたりでも何度もその前を通る場所でもあります。


墓は、横浜外国人墓地にあるそれらと殆ど同様の形式。

路沿いからのみしか見る事はできませんし、墓碑銘にオランダ語で「・・・尊敬すべき人、その名をケイスベルト・ヘンミー先生」と記されているとのこと。


今の日本という国が成立していった黎明期、この国の地を踏み、図らずもこの異国の土に化したたくさんの外国人の中の一人です。