県道81号倉真川に架かる二つの橋から 松葉城

金谷方面から粟ケ岳の北コース県道81号を掛川市倉真(くらみ)方向に南向しました(→ブログ)。

粟ケ岳といえばその山の真中辺りを新東名高速が貫いていますが、粟ケ岳の西側に皺状に派生する尾根たちを倉真川が縫うように流れています。

倉真川は掛川市内で平将門一門の首が掛けられた逆川と合流し、太田川と名を変えて袋井方面「木原畷」を通って駿河湾に辿ります。

山の西側トンネル出入り口のスグ南側、集落のある地域は特に倉真川の流れが蛇行している場所で、81号線が北側に円形に膨らんでいる箇所(航空図矢印)ですが、後から橋を2つ掛けて道を直線化、ショートカットした箇所があります(場所はここ)。

 

その道路が一見その姿をわかり難くしていますが、その倉真川を外堀とした粟ケ岳の裾の段丘が松葉城です。 

 

その近接した「松葉城山1号橋」と「松葉城山2号橋」の間に現在の登城口があります。おそらくこの道路の建設で遺構の破壊が推測できるところですが、案外と城の遺構は残っています。

何より圧巻なのは倉真川川底から見たこの城はまさに堅守の様相、どう考えても落とせなさそうな城ですね。

 

碑が建てられた本曲輪付近あたりまでは何とか登る事は出来ますが、決して登城者が頻繁に訪れるという城ではなく、管理も殆ど行き届いていず傾斜も急でリスキーです。石碑のある曲輪からさらに尾根伝東方向に繋がりますが、そこから西方向の出曲輪風遺構も確認できますがより斜面への取りつきが難しくなっています。多少の転倒転落お構いなしの方はチャレンジしてください。

 

この城の城主は河合成信という名が伝わっていますが、「川合」でもあり、粟ケ岳の無間井戸の伝承の諍い事に登場するあの殿さまのようです。

 

この松葉城は明応五年(1496)と言われていますが、そうなると志戸呂城で記した鶴見氏の滅亡年と同年です。そしてその城を討ったのがその鶴見氏と勝間田氏の連合軍だったとの物語が残ります。

 

その明応五年という年に集中して色々あったといえば「そんなものか」とも思えます。鶴見、勝間田両氏に討たれた川合氏、その混乱に乗じて今川氏親が今度は志戸呂を攻めたといえばそうかも知れませんね。

 

しかし勝間田氏は氏親の父親、今川義忠によって滅ぼされたのが文明八年(1476)で、松葉城、志戸呂城の陥落より20年も前の事。

昔話も交錯し粟ケ岳での川合の諍いの相手は大沢何某であったり勝間田であったりしています。

勝間田氏は勝間田城からは追い落とされたものの勝間田家傍流なのか家督相続した勝間田何某が率いる残党組があの志戸呂の鶴見に居て、合力して川合氏を攻めたということでしょうか。

 

前述したように、この城を攻めるには倉真川から攻めあがるという愚はありえないでしょう。やはり氏親が鶴見を滅ぼしたのと同じ、鶴見+勝間田軍は一旦粟ケ岳に登り、西に向かって展開したことは見当がつきます。

そうだとすると鶴見氏は自分がやって成功した戦法を逆に氏親らにやられてしまったという皮肉を思います。

 

掛川方面からですと掛川城を背にして北上するルートです。

そちらからですと法泉寺温泉、倉真温泉という掛川の温泉郷がありますのでこちらへもどうぞ。

松葉城への登城は掛川や金谷からやってくるのは面倒だという方は新東名の上下掛川PAがおすすめです。⑥は石碑のある曲輪付近から北方向。新東名高速を通すために削った山肌が正面に見えます。