突如の失業  川越人足の救済・・・丸尾文六

それにしても「人足」を期待してワープロで「にんそく」と入力しても「人足」は出て来ませんね。

7日の丸尾記念館で催された丸尾文六の偉業についての講演会にて山本義彦氏―静大名誉教授―も。

 

私もそのことについてイラっと来ていましたのでパソコンにはすでに「人足」を記憶させていますが、先生はついうっかり自ら変換違いをやらかしたプリントについて仰っていました。

 

ブログ「相良の幕末勇志」にて牧之原茶園開拓を中條景昭はじめとする全国から集まった幕臣たちの功労として記しましたが

池新田生れの丸尾文六はそれ以外、地元の人々、特に明治維新によって橋が架けられる事となって失職した大井川の渡しの川越人足の救済のために茶園開拓を推し進めた人でした。

先に丸尾医院について記しましたが勿論、同系です。

武士がイキナリ農民になる事には相当無理があることは分かりますし、そのかつての「士族のプライド」に「そもそもよそ者」という性質から、やはり大成させたのは丸尾の力が大だったようです。武士の性分なのか上から目線と土地の収奪に関して問題を起こしていたようでもありますし。

 

余談ですが「新野」について数日来記していましたが、現在は御前崎市の庁舎があって市の中心地になっている感のある「池新田」の元の名は・・・「新野池新田」。新野の先、新野川の作った人の住まない湿地帯を埋め立てて開いた地で、新野村の付属地というのが発祥です。先日池新田でもかなり山側、新野川の近くに「いのち山」が完成したというニュースがありましたが、 やはり池新田の被災予想は元の「低湿地帯」を意識しなくてはなりませんね。

もっとも原発が持ちこたえるかどうか、そっちの方が甚だ疑問ではありますが。

 

城飼郡の時代に新野が城に囲まれていたという事からも当時の主たる街は新野であったことがうかがえますね。

 

丸尾文六は牧の原野を茶畑として開墾し、同時に販路を開拓したというキレ者です。

山本義彦氏は経済学、近代日本経済史の先生ですが、日本経済の近代化において特筆すべき人として絶賛していました。

~「日本の工業化には生糸と綿糸紡績業と製茶の二大輸出物が重要な外貨獲得源 ちなみに両産業とも女子が主体となる仕事であった」~

単純ですね、「作ると同時に買ってもらう手だてを同時に考える」、という当たり前の事を緑茶製造販売の世界に於いて確立した人でした。

 

買ってもらう相手は何とアメリカを選んで輸出に力を入れたというところが凄いですね。

技術も未熟で暗中模索の中、原野を開拓し、何とかできた緑茶をいきなり輸出してドルを稼ごうという算段です。

当時は日本のお茶は清(中国)製にはかなわない二級品、粗悪なもののイメージが強かったそうです。

まぁ数年は赤字が続いたそうですがメゲずにひたすら励んだ姿が思い起こせます。

 

今でこそ静岡茶は全国トップですが当時茶と言えば京都、埼玉あたりが主流だったそうで・・・

果たして当時のアメリカに於ける緑茶の需要というものについて疑問が生じます。

「混茶」といってアメリカでは紅茶(一流)に混ぜ物として入れて目方を増やすというやり方があったそうですが、当初緑茶をその混ぜ物として市場に食い込んで行ったとのこと。

 

そして先生・・・

「まだ大丈夫と思って新しい方策を思考しないでいるといつかそれが陳腐化して他者にとって代わられる」と。

漫然と胡坐をかいているのではなく、新風を吹き込んで他と違う何か、特殊性を発展させなくてはならないということでしょう。