家康の廟所 久能山東照宮

元和二年(1616)一月、家康が田中城の鷹狩にて、「鯛の天ぷら」の食あたりがもと?で衰弱し亡くなったのが四月十七日(1616.6.1)。実際は胃癌説も浮上しているようです。

「戦後70年」とメディア等「その反省」を再び問いなおそうというのが時流ではありますが、今年は家康没後四百年ということもあって、こちら駿府、浜松を筆頭に各所でその顕彰するイベントが執り行われます。

 

家康は子供に恵まれず、家臣団の団結もイマイチだった秀吉家の滅亡を目の当たりにしていますので、たくさんの側室に子女、落胤といわれる子供たち、それに養子・猶子を揃え、それを駆使してここぞと思う「家」と縁戚関係を結び、子飼いの家臣には「家」や「康」の偏諱を与えまくっています。

その事から家臣団に同じような名が多くあってそのことが人名を紛らわしくしている要因になっていますね。

要は親密な「縁者」によって周囲(政道―幕府)を固めていたわけですね。

 

その子たちへの家康の遺言は、「久能城への埋葬」でした。一周忌に日光に改装しますが、当初は「東照社」。

その際、必要な亡き家康の格式について揉めますね。

「権現」か「明神」の神号の選択です。結局秀吉の神格が「豊国大明神」でしたから、それでは具合が悪いということで「権現」(化身-東方薬師-として出現)、「東照大権現」に決定。

昨日ブログの榊原照久の「照」も勿論「東照」からでしょう。


尚、家康の遺骸の存在については日光ではなく、駿河久能山説も有力に残っています。

遺骸がどちらかにあるかと揉めているならあの廟所を「調査」すればそれで済むことだと単純に考えてしまいますが・・・。


廟所の隅に家康の愛馬の墓も。

⑤画像は家光が建てた五重塔の跡。

例の明治の悪しき神仏分離、廃仏毀釈によって壊されています。

現存していれば国宝クラスの建造物だったことでしょう。