その道に通じる城好き 高天神城 丹波曲輪 

掛川所用の帰りに高天神城へ。

珍しく観光バスが搦め手駐車場に一台。

こちらの駐車場の整備は凄いですね。都会の大公園並に整備されています。大抵は数代が停まっている程度でそれもどちらかの営業車の休憩場所としての利用が殆どです。純然たる観光でこの城を目的としてこちらへ来られる方にお目にかかることは滅多にありません。せいぜい散歩。

 

私が上って見ると二の丸方向から出てきて高天神社の階段を昇る一団がありましたので案内人らしき若者にインタビュー。

大阪からの「その道に通じた人たち」のツアー36名だそうです。

最高齢80歳だそうでシャキシャキと散策を楽しんでいました。

 

階段を昇り切った社殿裏側から続く「馬場平」への道には1本空堀がありますので大丈夫?と思って見ていると、しっかりそちらでの曲輪へ渡っていて添乗員あるいは講師らしき人が説明をしていました。

 

かつての台風の被害で通行止めになっていた「横田甚五郎の抜け道」入口は制止する看板は撤去されていましたがさすがに御一行様はそちらでUターンでした。

 

杖を左右の手に持った年配の方が、「ぽかんと」見ている私に、「これから横須賀城を廻る」と。その後は一旦浜松に一泊して明日は小山城と田中城行脚とのこと。随分効率の悪い行程ですね。

私は、それを聞いて焦点は「家康にかかわる城」であると感じ、「これから廻られる城は比較的ラクそう、浜松宿泊なら浜松城あたりも予定にあるのですね?」と聞くと、「近くに居た案内の若い方がこちらにいらっしゃる方はお城好きの通の方々ばかりでその手の城にはいかない」と半ば私への嘲笑の様。手の加えられていない堀・土塁・堀切の写真を所望されているようでした。

 

私も感心して「それでは諏訪原城」など年配の方にも楽に廻れて、堀も見事ですが行かれるのですね」などと余計な事を言ってしまいました。今回予定には無いとのこと。

個人的に小山城も田中城も焦点ボケで人を案内するような「城」ではないとの感がありますが、これ以上の突っ込みは控えました。大阪から遠州にスポットをあてて大勢さんで来られるとは有り難く嬉しく思いますし。

 

ご年配の方々のツアーではまったく無理はないかも知れませんが、高天神城散策でやはり目を惹いて、ざっと見て帰るとしたら

 1本曲輪 2大河内石風呂 3二の丸周辺 4本間・丸尾兄弟の墓 5堂尾曲輪土塁堀切 6馬場平まででしょう。

 

6馬場平から 7横田甚五郎抜け道(画像②③④)を「林の谷」に下ることもできますが年配者には無理でしょうし若手の方でも大抵は「もういいや」と諦めるところですね。

8西の丸(丹波曲輪) 9三の丸 10着到櫓 11追手門のうち、追手門からの逆コースで登城する人にとっては9 10 11は簡単に見て廻れます。

 

結果どうしても見落としがちになるのが前述、馬場平に続く高天神社への長い階段の途中左側の社務所の裏側に尾根伝いに伸びる「西の丸」、通称「丹波曲輪」ですね。こちらは大抵見落としていますね。

今回の大阪からのツアーの方々のうち、誰一人そちらへ向かう人はいませんでした。

実はこの馬の背状に南側に伸びる尾根は追手道の9 10 11の主郭につながる尾根に対抗してU字型に「鹿ノ谷」を見降ろす形になっています。

 

この尾根上の曲輪には図面⑥の赤丸の通り、大きな堀切がバッチリ残存しています。当時は木橋等で繋がっていて有事には切り落とせるようになっていたのでしょう。

現在は崖状の段差を下りて上るというストレスがありますので、この尾根の先端まで行くというのはやはりどちらにしろ年配者には難しいところです。ただしこの遺構の存在は激戦の鹿ノ谷の形状を理解していただくという意味で紹介できればいいですね。危険が少ない様、尾根を堀切の直前まで行くことはできますね。堀に下りないにしろこの城の形がわかるというものです。

 

他にも小型の堀切や曲輪を囲む武者走り等もうかがえ⑲⑳、見どころ満載の「西の丸」なのでした。

 

先端部の曲輪は比較的低く、どちらかといえば攻め方は取り付きやすいのですが、何重にもその上部に段上に控える堀切と曲輪は、細い尾根という条件も重なって、進攻はしずらく、上部からの矢弾の的になったでしょうね。

 

とにもかくにもこの曲輪の守将は丹波守と聞きます。「丹波曲輪」と呼ばれる由縁ですが、この人の名は徳川方で知らぬ者は誰一人いないほどの武辺を誇る人でした。

名を岡部元信、 当時は「真幸」を名のっていたといいます。

ちなみに元信の「元」は今川義元から、真幸の「真」は今川氏真からの偏諱といい、家康の駿府今川家臣時代からのいわば同僚というか先輩のようなもの。

 

桶狭間をきっかけに家康は今川に反旗を翻して信長と同盟、岡部は今川に戻り、今川滅亡後に武田へという形で道を違えました。

其々の事情は違いますが岡部は主家今川に忠誠を尽し、家康は掌を返した裏切り者だったわけで「岡部の気概」も一つの恐怖であったことは違いないでしょう。

攻め手は横須賀衆だったそうですが、そこにいるかいないかわからないにしろ岡部という人の名が冠する曲輪を攻めたてるのはいかにも難儀であるという気持ちが強かったでしょう。

岡部については尾張鳴海城を。