わかる(知る)べきは如来の「大悲心」

一昨日夕方の「そわそわ」感は、百歳で亡くなったお婆さんのお通夜直前だったからでした。私の母親が懇意にしていただいた方でした。

その方の孫にあたる女性から法名の一字に「学」の字を入れたいとのリクエスト。喜んで承諾いたしました。

 

「法名」は生前に付けていただければベスト(生きている今、仏になる 「すくわれる」という教えであるから・・・)ですが、「その時」を迎えるに当たり「まだ」の方は通夜の冒頭の「帰敬式」(おかみそり 「帰依して敬礼」・・)を経て銘々することになります。

 

勿論、その帰敬式が済んで通夜の「正信偈」が始まる前に他宗派でいう位牌のような形の白木の「法名札」を如来様の下に掲げますので、当然にそれが始まる前に法名を決めて、その「白木」を用意しておかなくてはなりません。

というわけで、拙寺の場合は通夜とは別にその前に「枕経」という機会をいただいて、お邪魔してリクエストを聞くというのが「私のスタイル」です。前住、父は枕経=通夜でしたが・・・。

 

そのリクエストについて、先方様からアドバイスを求められる事はよくあります。そんな時、私は「正信偈」をお渡しして、『「悪」とか法名的に相応しくない字以外』を選んでいただければ・・・と。

しかし「悪」は当流「悪人正機」、代表的教えでありますので、そこまで深く信心のうえでの銘々であるならば、と完全否定することはありませんが・・・。ちなみにいまだかつて「善」はありますが「悪」の使用を見たことがありません。

 

善知識である御開祖が「賢」ではなく「愚」を使用し、その「愚」こそ当流門主の称号のしるしであるのですから、「悪」の字があったとしても「まったくOK!!!」でしょう。

 

さて、「学」の字は正信偈の中には見当たりません。

しかし出棺の儀や葬儀式「先請伽陀」に続く「勧衆偈」にて登場してきますね。

「勧衆偈」は四句×十四行であることから「十四行偈」、または通夜の「帰敬式」に続いて重ねての「帰依を誓う」ということか「帰三宝偈」とも呼ばれています。

 

その「勧衆偈」は正信偈<草四句目下>の音程の変わるところ「善導独明仏正意」の善導さんが記したものですね。私が好きな六時礼讃偈の作者と同じです。

親鸞さんが「善導さん独りだけ仏の正意を明らかにした」と絶賛の方ですが、この人の「学」は「これこそ真宗(あるいは浄土教系)」の本質を語る場面でしょう。

 

善導さんが「学ぼう」=「知ろう」=「聞こう」=「うけとめよう」と語っていることとは果たして・・・

それは「学仏大悲心」のフレーズです。

「阿弥陀さんの大悲の心を受けとめよう」という「勧め」であったのでした。

大悲とは阿弥陀の私たち生きとし生けるものすべてに及ぶ「慈悲」の光でしょう。慈しみ憐れむ心、今風に言えば「悼む心」、カタカナを使えば「深層のケア」でしょうか。

 

真宗的「大悲―悼む心」の方向は亡き人ではありませんので、法事参集の参列者全員に及ぶものです。そして参列者全員が漏れなく仏になって欲しいという阿弥陀の願いです。

阿弥陀さんの「不捨の誓益」ですね。

ちなみにこの語「不捨」は私が通夜の御文として好んで使用している三帖-四「大聖世尊」に出てきます。


たとえば「わからない人にはわからない」などと発する高(たか)ビーな御姿にはならないのです。

「学ぶ」は「覚る」、この「捨て台詞」は「非不捨」(すてざるにあらず)=「捨てる」でして私たちは決してそういう態度を真似してはいけませんね。

ちなみに「学ぶ」=「学仏」=「真似仏」ともいうそうです。

「善知識」の真似事をして成長できれば・・・

久々違和感突出の「エライ人」登場のため連日その文言について考えてしまいました。