当山古文書「釋尼妙意記」 勒さんの事

なぜか頭の中が「くしゃくしゃ」になって色々なことを失念し、「私はいったい何をやっているのだか・・・」そのような事、最近よくあります。

「くしゃくしゃ」の表現は母の口癖を借りたものですが、だいたいその手のことは誰かしら経験があってその辺のニュアンスは何となくお判りいただけるかと思います。

 

要は頭の中が「散らかっている」ということ。

史料も塵芥も何もかもが家の中に散乱している当家では、それが頭の中まで伝染し、諦めとヤレヤレ感満載、「コレ何?」と言われて元ネタを探し出そうにもそんな状況にはないということです。

 

先日、成瀬藤蔵正義について新聞社の取材がありました。

徳川家臣団のそれぞれを追っているそうです。

そこで、当山に伝わる成瀬正義とその妻の勒さん(釋尼妙意)の位牌等を見て頂いて、大体の説明をさせていただいたのですが、おしまいに「釋尼妙意記」の原本と妙意=勒さんの名の出典について問われました。

 

お恥ずかしいことながらその際「釋尼妙意記」についてまったく何処にしまったかわからなくなっていました。

うすうすその問い合わせはあるかと思っていましたので、「やはり来た」と焦燥感のみあって、どうにも発見できないその状況を謝罪するばかり。

「勒」さんの名もそういえばずっとそう耳に馴染んでいたのみで、いきなりその出典は?と言われても瞬時に対応できず、これも謝るだけでした。

 

要はまともに探索する気が無かったといえばそうなのですが、「当山過去帳第壱」をペラッと捲っていたらその「勒」の名が出てきました。過去帳とは・・・将に当たり前のことでした。

そしてまた、その近くに他の古文書と一緒にぐちゃぐちゃになって出てきた「釋尼妙意記」を久し振りに発見したという次第です。


あまりに酷い放置状況でしたので今は、表装して巻物にしようかと検討中です。

このままでは逸失と破損の憂き目を見そうな気がして、御先祖様に申し訳ないこととなります。特にネコどもの自由奔放さを容認している家ですのでこれらのものにどういう災禍が及ぶかと想像するのは恐ろしいところではあります。

 

勒さん、釋妙意のご主人は成瀬藤蔵正義で元亀三年(1572)三方が原(成瀬谷墓)で亡くなっています。当山三代目祐傳の父母ですね。

その勒さんの釋尼妙意記は当山最大スポンサーでありその人の一生を大まかに記述したものです。おそらく勒さんが亡くなったあとにその聞いた話を「それなりに」改めて記したのではないでしょうか。


勒さんは万冶三年(1661)の1月29日に亡くなっています(本日が命日)。その内容も勘違いや誤認の記述なのか何なのか読んでいるとこれまた頭の中が混乱してきます。

 

ちなみに勒さんの名がある「当山過去帳壱」の最期に記した人(編集者)として当山六代目釋祐圓の名が記されています(享保十六年1731没)が、「釋尼妙意記」の成立時期については不詳です。


正義と勒さんの間には四人の男子が居て(まず間違いないところ)、その末の子(祐傳)とともに大澤寺の前身の菊川段平尾の本楽寺に入ったというのが当家に伝わっているところです(妙意記では「二人の子」・・・他に着眼しなければどうでもイイと言ったらそんなところか)。


その際、今井家の初代今井権七(釋浄了)の子である二代の釋西念は第一次高天神戦で焼失した本楽寺の代替地と建物を家康の力で相良大沢に手当てしてもらったのと同時に、再び平尾に戻って西林寺を建てました。もっともその家康の力を引き出したのは妙意=勒さんでした。

釋西念は結果的にその妹?と婚姻した(寺伝推測)祐傳と勒さん親子のために大沢の寺を出たという形になります。

 

「釋尼妙意記」はあきらかに誤記と思われる点(元亀→天正)がありますし、亡くなったはずの藤蔵正義が出てきたり(これは父親と同じ名のりをさせたか・・・過去帳脇の記述)、養子に出た片岡半衛門なる人物が今一つ判らないという歯がゆさ、当山では4人男子の末っ子が祐傳といわれているのですが、文書には二人とあります。


また、藤蔵正義が亡くなった1572年に子供が4人いたとして勒さんが20代前半と考えて「1550生れ」と仮に推せば111歳です。ご長寿といっても少々首を傾げたくなるところでもありますが、一応はその旨当山に伝わっています。この時代ですから超人的長寿です。恒信の人だっただけにまさに「無量寿」を想います。

 

一応参考までに当山古文書「釋尼妙意記」を左側のナビゲーションに記します。


画像①②は「当山過去帳壱」①に釋尼妙意、勒さんの名と記述が欄外に。過去帳には「尼」抜きになっています。「釋尼」とある妙意記、深い意味は無いとは思いますが、整合性に欠けますね。

まぁ当山代々の住職はその辺りのところ、かなりイイ加減であることは確かです。「尼」をつけたりつけなかったり・・・脈略が無いというか、その日の気分で?風です・・・)、これは父の代までずっと継承している不思議なところなのですが、私は女性であれば機械的に「尼」の字を「釋」の次に(少し小さ目な字で)記すことにしています。


話は飛びますが①の左側、新町野村庄衛門の末裔が現在相良に残る寿司店「野庄」です。代々の名のりが屋号になったということですね。ただし総本家は伊東に越しています(野村商店―野村玲三氏)。

野村家は当山初代今井権七らと遠州に下った一家です。