雑賀砦からの富士山 満勝寺背後の丘陵・・ 中村砦 

昨日記した「中村城山」を海側の出城とし、雑賀吉長の屋敷を含めた城域と言われる、「雑賀砦」とをセットにして「中村砦」と呼んだというのが地元史家鈴木東洋氏の説。

文献等を追いかけても大いに雑賀氏惣領の屋敷・城跡を元にやはり今川-武田-徳川の時代を経て手が加えられ、中村城山の出城的城塞を含めての「中村砦」と考えるのが自然であるように思えます。

 

そうなると、中村砦=昨日記した中村城山(出城?田中砦とも・・)と六砦の一つと言われる「中村砦」と断定してしまうのは、おかしなことになってしまいますね。

そもそも「雑賀砦」と呼ばれる、お寺の裏山は雑賀氏の本城であって、どう考えても複数の段状の連なる郭やスケールから、むしろ雑賀砦の方が広大で、その二つの砦両方を含めて、高天神城の出城から包囲した家康が改修工事を経て対高天神包囲の付城として六砦の一つとされていたと考えられます。

 

獅子ケ鼻砦方面(「中」の交差点方向)が平地となっており、遠州灘が前面にある中村城山方向の低部、尾根から見て東部には雑賀氏の屋敷が元あった場所で、そちらが現在の寺本堂と境内地②とのこと。

ただし「中」の交差点北東側に雑賀砦の延長で切通しの如くある小さな丘陵(⑪黄円と⑫)がありますので、「段丘東部の屋敷跡」は今の寺よりも東側にあったのかも知れません。戦時の城郭の感覚で云えば中交差点付近がいわゆる根古屋だったようです。

 

当然に城の前面は海方向でしょうから、大手道はお寺の境内から伸びるというのがスジでしょう。連郭式の尾根伝いに北上すれば高天神城の目前にまで至ることができます。

 

その倒木等で尾根上の通路(一応道らしきものはあります⑤)を各所で隔てられますが、砦のエンド辺り(搦め手?)に比較的大きな堀切らしきものが確認できます⑥⑦と⑪図赤い線。

当時のモノであるとすれば比較的大きな遺構ですしまさに驚きではあります。

この構造物は後世になって工作されたものなのか知り得ませんが、散見する他の城好きのレポートにも指摘はありませんね。

もっともこの雑賀砦について幾度も歩いている変人はそうはいないでしょうが。

 

その「堀切」を通過して「道らしき」谷筋⑧を通って竹藪を越すと台地北側の湿地帯に抜けられます⑨。

そちらに向かわず「切通し」を再度尾根の付け根方向に登って向かえばさらなる高天神包囲の砦に当たることとなります。

 

①が本堂から上がって東側。獅子ケ鼻砦と富士山。③④は雑賀砦より見た中村城山。

⑩図 A中村城山 B雑賀砦 C獅子ケ鼻砦 D高天神城

⑬⑭⑮縄張り図は鈴木東洋氏による(静岡古城研究会)。