フェノロサは「諦信」ビゲローは「月心」

今はなき先代住職を同行させての上野への日帰りバスツアーは雨にたたられた挙句、父と叔母が迷子になってからタクシーを使って待ち合わせ場所の浅草本願寺に遅れて来た散々の思いの「ボストン美術館展」行脚は、今考えるととても懐かしい思い出になりました。父親は何しろ勝手気まま、やりたいように動くというのがモットーでしたので、集合時間だろうが、他者に迷惑をかけようがお構いなしの終始ハラハラでした。

よくよく考えて胸に手をあてて思案すれば、私も愚息もみんな一律どっちもどっちなのでしょうが。

 

明治期に於ける最低最悪のハチャメチャな法、「廃仏毀釈」(仏を破壊し、釈迦の教えを壊す~「毀釈」)についてはブログでも時折触れています。

その例としては①寺院の廃合②僧侶の神職への転向③仏像・仏具の破壊④仏事の禁止等々、今考えればまったく新政府はバカげていて幼稚な法令を出したものです。

 

そもそも討幕後の稚拙で安直な発想から出した法令が独り歩きし出して日本各地でその暴走を招いたのですが、地方によってその暴走度の針の振れ方はまちまち、かなり違っていました。

たまたま地方の役人や指導者が過激な発想の持ち主であったり、国学という普及地盤が強かった場合、その地の仏教寺院の被害は膨大で、消失した寺院も多々ありました。

たとえば興福寺五重塔が「薪」として払い下げされる寸前にまであったともいいます。

幸いに静岡県人の温和さからか、当山への被害は皆無でした。

本当におかげさまだと思っています。

 

それらの嵐が吹き荒れている中、貴重な仏教美術品を毀損から助け出したのがフェノロサでした。外国人の目からみてその行為は何とも愚かしい日本人の姿を晒したことと思います。

フェノロサは高校の教科書的に言えば、岡倉天心とともに東京美術学校(のちの東京藝術大学)を創設した人でしたね。

 

日本美術への造詣が深く、ボストン美術館東洋部長を経て、明治18年、再来日して仏教に帰依し友人のビゲローとともに受戒しています。お二人の詳細は各自お調べを。

 

その際、受けたものが標記です。日本人が仏教を捨てて仏教美術品を壊していた時代、真逆の行動をとった第一人者がアメリカ人フェノロサだったわけです。

いわば日本の仏教美術の救世主、彼らがいなかったらボストン美術館への収蔵は無く、貴重な芸術品は薪同然に散逸していったことでしょう。

 

三井寺(園城寺)長等山、山側の段丘が「何かの城塞跡?」をも感ずる森の中の道径を進み墓道の途中新羅三郎義光の墓をさらに奥へ進むと三井寺塔頭の法明院があります。

秋の紅葉と庭園の美しさが売りですね。ただし私が歩いたのは10月でした。

フェノロサはこの寺からの琵琶湖を望む景色がお気に入りだったようで、遺言は「此方の墓に」でした。

ロンドン視察旅行の際に亡くなりますが、遺言通り法明院に葬られました。

 

あの森の中、静寂の空気に包まれている墓域は昼でもなお薄暗い感、。多くの名も無き墓たちの中、彼らの墓は苔むしつつ建っています。古を愛する彼らの墓石の形姿は五輪塔でした。

京都ではなく近江、琵琶湖を眺望できる地というところもまた、かれらの「通」を感じます。

 

 

三井寺山門内の案内板①を凝視すると右上にフェノロサの墓とあります。しかしこの図を真に受けて門を潜ったら法明院に辿りつけません。大津市歴史博物館からの山道か消防署や役所の裏の弘文天皇陵から上がってください(場所はここ)。