若き日の頼朝の屈辱と悔恨 真珠院の伝承

当山現総代の伊東氏の御先祖について伊豆の「伊東」でお馴染み、伊東祐親の流れという伝承があります。

参考までに私は「高天神崩れ」の線も捨てがたいと伊東家でお話したことがあります。

 

それは単純な理由でなお勝手な推測です。

①「高天神戦」関係の資料で武田方に「伊藤」の苗字を目にしたことがあったこと②伊東家の家紋が諏訪大社の社紋の「丸に梶の葉」であるということから私の説は「信州系」でした。

①の苗字の字体に関しては今までブログでも記させていただいている通り「東」「藤」などの確定は殆ど明治以降ですのでその字の違いついては古くは「あて字」的、あまり意味の無い違いなのです。現に伊東家の流れで比較的古くない時代に「藤」を採用している家もあるくらいです。

 

伊東家の諏訪大社からの筋は私のロマンですね。

信玄以来の武田の戦法に卜占神慮を重んじる傾向がありましたが武田家は勝頼の代になってもそれらの「啓示」を戦術に取り入れたと思います。

武田家を継いだ勝頼は信濃高遠城主の時代、「諏訪勝頼」、また高遠=伊那谷から「伊奈四郎勝頼」とも呼ばれていました。

 

「諏訪大明神」を旗印に掲げる勝頼が「伊那谷の東」住、諏訪神社神官系の一流(不詳)を遠州高天神まで連れて来た・・「のかも知れない・・・」という推測でした。

しかし推測を離れませんので伝承通り「伊豆伊東」が有力となっています。

 

さて宝篋印塔型五輪塔佇む真珠ケ淵の真珠院さんには寂しい歴史が残っています。

伊豆を拠点とする伊東祐親は東国平氏の要でした。平清盛からは伊豆に配流となった頼朝の監視役を命じられます。

そして彼の孫たちが引き起こすのが世に言う「曽我兄弟の仇討」になります。

 

伊東祐親が伊豆の地から離れて京都警護の大番役に就いた在京時代、祐親の娘、八重姫がよりによって頼朝と懇意になってしまったというところからこの悲話は始まります。

 

八重姫が頼朝との間に産んだ千鶴御前が3歳になるまで(任を終えて帰郷するまで)祐親がそのことに気付かなかったのか放置していたのかわかりませんが、どう考えても少しばかり無理があるような気がしますが・・・。

 

やはり、いくら何でも天下の頂点にいる平氏に対しての仇敵でもある「源家の流刑人」という立場の人間が、地方とはいえ平氏配下の有力豪族の娘に手が出せるものかと俄かには信じられないところですね。もっとも頼朝はやはり平家方の北条時政邸に匿われて娘の政子を妻としますから「そんなものか」とも思いますが・・・。

 

伊東祐親は千鶴御前の件に激怒して、その娘を「こも-柴-に巻いて淵に沈める」という暴挙に出たそうです。

「清盛にバレたら大変」という気持ちが真っ先に起こるでしょうからこれはわかるような気がします。

八重姫は父祐親が追った頼朝の逃げ込んだ北条方の隠れ家を探し出し訪ねども面会はかなわず、政子との婚姻を知るところとなり真珠ケ淵に身を投げるにいたったというのがこのお話です。

 

真珠院さんの碑には八重姫の身投げに同調した付き人を含め七人との記載がある碑があります。主従の身とはいえ八重姫に付き添って身を投げなければならなかった従者に対して気の毒に感じます。

 

梯子のミニチュアが飾られているのは「梯子の一本もあったなら」という意味だそうです。流れの速かった淵に降りて救けに行きたかったという思いのようです。

野間の大坊で長田忠致父子に風呂場で騙し討ちにあった頼朝の父、義朝が「木太刀の一本なりともあれば」と死際に言ったということから野間の彼の墓には木刀が積み重なっていたことを思い出しました。

 

この八重姫の御堂の脇には何故かナギ(梛)の木があるのでした。