それから彼の人はこうなった 平宗盛、平氏終末

遠州豊田 の「熊野の長藤」でお馴染み熊野(ゆや)は一時遠江守に任官した平宗盛の愛人でした。

平宗盛は平清盛の三男で平家の全盛期と没落、その屈辱まですべてを味わった人ですね。最終的には後白河法皇に追討の宣旨まで出されて賊軍として敗走、度重なる命乞いにもかかわらず執拗に追い立てられ、壇ノ浦でも死にきれずに囚われの身となりました。

 

壇ノ浦が「平家滅亡の地」であるということは当たり前のように教わりましたが、それは「勢力的に」ということで、本来その家を継承し棟梁である宗盛とその嫡男清宗他一統男子は壇ノ浦以降も生存していたのですから、厳密に言えば平家滅亡の地は壇ノ浦では無かったのです。

 

見物人に後ろ指を指されながらの壇ノ浦から慣れ親しんだ京都を経て関東は頼朝のいる鎌倉までの囚人としての行脚、そして鎌倉では頼朝へ助命嘆願、その嘲笑を受けての屈辱と生死不明不安の中、入京直前の近江野洲、篠原宿で父子ともども斬首されました。男子は当然皆殺しですね。頼朝の差配は「将来に禍根を残さない」が当然のモットーだったでしょう。

自らが逆の立場で命を拾って逆転させたのですから、平家の轍は踏まないのは当然です。

 

平家物語の近江篠原は「かがみの里」の目と鼻の先。

囚人護送担当は義経でしたから自らが寺を抜け出して「遮那王」から元服し源義経と名乗りをあげたまさにその地は、感慨無量と意味深な因縁を感じて、「平家斬るなら此の地」と決めていたのでしょう。どちらにしろ兄頼朝からは斬首は初めから決まっていたことでしょうが。

ということで入京は首のみの持参です。こちらのお墓は胴塚ということになります。首は人目に晒して「戦勝」を周知徹底させるための宣伝に使います。

 

本当の平家滅亡の地、近江篠原(場所はここ)は鏡や武佐方面から国道8号へ野洲方向に向かって左手にあります。

看板が立っていますが注意していないとパスしてしまいますね。現在は大き目の給油所の跡地が目印です。

まず先に右側にファミリーМがありますのでそれが出てきたらその先の左側。

その跡地と現在のリサイクル会社との間の道の奥まったところ、さほどの距離なくその地に辿りつくことができます。

 

地名の通りかつては湿原と笹の葉茂る原野だったのでしょう。

墓のある場所は「人知れず佇む」といった形容の似合う、寂しい場所ですね。

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コメント: 2
  • #1

    山田修二 (火曜日, 12 7月 2016 21:18)

    胴塚を供養できたらよいなと考えています。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 12 7月 2016 22:28)

    ありがとうございます。
    是非にお訪ねください。