かがみの里の宝篋印塔 西光寺跡

義経に関わる鏡神社の社殿も重文指定となっていましたが、同様に国宝指定された石塔がすぐ近くにあります。

私がこの道の駅を訪れた理由はこちらのずっしり威風堂々の宝篋印塔(場所はここ)にお会いしたかったからですね。

 

ここはもともと最澄が建てたと言われる西光寺という仏閣塔頭があったといわれています。その阿弥陀如来の来迎をあらわしたが如くの名から推測するに天台宗の浄土系寺院だったのではなかったでしょうか。かつては相当の規模があったようですので比叡山琵琶湖側の西教寺のような寺があったのかも知れません。

ポイントは西教寺の歩んだように再建が出来なかったのは明智光秀のような絶大スポンサーが現れなかったということでしょうか。

 

灰燼に帰して今のような草ぼうぼう、山野の姿となったのは信長による近江侵攻による兵火だといわれます。多くの伽藍(伝承では嵯峨天皇勅願所で僧坊300)があったことを物語る遺構は他に殆ど見当たらないことから、礎石石塔の多くは安土城へ搬出されたのかも知れません。

 

宝篋印塔と灯籠という2つの重文が残されているのは、安土城への搬出がそもそも無かったのか、少しは残してやろうとしたのか当時隠されて搬出を免れたか不明ですが、こういう場所にひっそりと鎮座されている石塔には有難さを感じます。

これだけの出来のいいお宝に入山料なし、他の観光客皆無という独り占め状態でお会いできるのは何とも嬉しい贅沢ですね。

 

高さ210㎝宝篋印塔は鎌倉時代末期のものだそうです。

残念ながら上部に伸びた「相輪」部分とトップの「宝珠」は欠け落ちてしまっていますが、大き目でしっかりと直立しているかに見える「隅飾」は圧巻です。「塔身」には中央に梵字が記されているようですが、コーナーには孔雀のレリーフ?が施されています。

基礎部分も同様でこの彫りものは梟だとのこと。

調査では骨蔵器の四耳壺等(14C)が出土しているそうです。

 

この宝篋印塔のスグ近くには近くの神社跡(若宮神社)から移設されてきた石灯籠にお目にかかることができます。

これがもう一つの重文でこちらは応永二十八年(1421)のシロモノ。

特筆すべきは3点。

①282.4㎝とやたらと高い②八角柱状③仏像の彫りものがある

です。この高さのものが無事に600年も山の中に立ち続けて保存状況がいいというのも驚きです。

八角形というと私は「即位した大王の墳墓」というイメージがありますね。それは他の豪族との区別だといいます。

「丸ではなく八角」というのは「違う」という意味もありますが、「天下八方の支配者」というこれも中国古来の思想の影響です。この石塔の八角柱も「天皇系」を示唆する可能性もあるのではないでしょうか。

石材としては近江八幡産(瓶割山)の花崗岩ではないかと推定されています。

 

このような石灯籠が当山の「境内にあれば・・・」などとつい煩悩の芽がもたげてしまいます。イイものとの出会い二題でした。