黒田官兵衛より大河内源三郎正局の方が凄い  一か八

ちゃっかり1年も前からこの日曜日に印をつけ、ひたすら予定を入れずにいました。

ブログでもお知らせした通り、袋井浅羽支所歴史文化館で催される「馬伏塚城と高天神城展」へ。

隣接の図書館にて小和田先生の講演会と加藤理文氏と戸塚和美氏を加えた3名による座談会という企画です。

 

事前申し込みによる募集により集まった受講者を見回すと、60代70代以上とみられる方々が殆ど。

私もこの齢で平均年齢を下げた様です。

それにしても質疑応答はあいかわらず、的を得ていない受講者の質問で回答する方もさすがに「大変だ」と思った次第です。

どうしても「マイペースの自分本位」で、結果意味不明の質問となってしまう様子をよく目にします。

要はお話の内容とは違う質問や持論の展開の場となるものですから、周囲はハラハラです。

 

しかし、もっと若い方が来てくれるといいのですがね。

講義内容は「小笠原と福島の出自」と、「高天神城と馬伏塚城の初見」についてが主。両項とも資料的に関連しそうなものはあるにはありますが推測の域を出ないというところでしょう。

 

加藤理文氏と戸塚和美氏は両城発掘現場でのエキスパートです。たまたま帰り際に駐車場で戸塚氏(掛川市教育委員会)と立ち話という機会に恵まれ(牧之原市教育委員会の松下氏に紹介をいただきました)、一つ質問をさせていただきました。

 

標記「大河内正局」の石牢についてです。

図④⑤は高天神城本丸北側下の斜面にある遺構ですが、2010年夏だったと思います、台風による斜面土砂崩壊で洞窟が崩れたあとの手当ですね。

洞窟は土嚢で封じられてしまい、以来そのままになっていることへ今後復元の予定の有無について質問をしました。

画像④が2011春先の図。直後⑤の如く封じられてしまいました。

 

すると、復元の方向で持っていくつもりだが、この石牢の下に今一つ石牢を発見したため、新たな発掘調査が必要になったとのこと。

今後の展開に興味が湧くところです。

 

さて、大河内正局(まさもと?)は武田勝頼による(第一次高天神城戦)籠城戦直前に高天神城に軍監として入った人で、いわゆる家康の代理人。

歴とした城主は小笠原氏助(信興・長忠)がいるわけですが、当時の「スポンサーサイドの代理人」のような感覚でオブザーブ的な立場をしていた人ですね。

 

戦いは武田勢2.5万に包囲されて兵糧切れ寸前、浜松の家康の後詰を期待しても埒が明かず城主小笠原氏助は勝頼の懐柔を受けて開城方針。のちに「西退(徳川)・東退(武田)自由」という、籠城組に配慮した解散が決まってしまいます。

それぞれお好きな方へどうぞと言われて、おめおめと西退できる立場に無かったのが大河内正局です。

この城で「職務を全うする」意思で西にも東にも退かず勝頼の説得にも応じなかったといいます。そこで武田方の城となった高天神城の石牢への幽閉となったわけです。

彼は牢の看板に記されているごとく天正二年から天正九年まで8年の間の狭い劣悪空間です。

官兵衛の幽閉時間(約1年)をはるかに超えています。

彼の苦痛たるや想像を超えるもので、彼の忍耐たるやただの性根では無いことがわかります。

関節は曲がらず歩行困難だったそうです。

「生きる」という力を思うには彼の生き様を想像すればいい手本となりましょう。まぁ普通では有り得ない状況ですが。