源頼義に繋がる其の地の教訓は中学校国語でお馴染み

当山の御正忌報恩講も終了し、一安心。

「東海地区すべて晴れで静岡のみ雨が降る」という嫌がらせにも近い有り得ないような気象庁の予報は私の予想通り、大外れ。皆さまの心配の声とは裏腹に、おかげさまでイイお天気の元、無事終了することができました。

 

あまりの好天に気温も上昇し、焼イモの販売が振るわなかったのは想定外でしたが・・・。苦笑いしながら終盤売れ残りを2個100円の半値にして、さらに焼けずに残った生のイモは手伝いで残った皆さんで分けました。「まぁそういうこともあらあな」です。


他にも色々改善点は散見されましたが、まずまずの御縁をいただいたと感謝しております。ちなみに雨がポツポツしだしたのは午後8時過ぎてからでした。気象庁には一応敬意は表して・・・牧之原台地はV字型に太平洋が出っ張ってますからね。他の静岡県内の予報とは違ってくるでしょう。

 

限られた自分の知識、認識、理解というものが案外と失敗を招く要因になることがありますね。勝手な思い込みというものもあって時として脱線して「苦笑い」すること、私にいたっては日常茶飯事の域です。笑って済ませればいいですがそれがいつ致命的な失策に繋がるかも常時頭の中にいれていなくてはならないと思っています。

 

真宗では辿るべき「その道」のことを、特に「浄土往生の道」のことに特化しているような感があります。「まだまだその御縁は先の事」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、御開祖の御指摘、「体失・不体失往生の諍論」(死んでから浄土に行くか(臨終業成) ―×、生きているうちに浄土に行くか(平生業成) ―◎)の通り、やはりその道は「今」求めて行かなくてはならないのです。

 

よってその道の案内人のこと、道しるべのことを真宗では「善知識」と呼び、その方々は「七高僧」として各末寺本堂余間に御軸として登場しています。勿論正信偈の中に紹介されていることは言うまでも無いところですね。

 

さて、源頼義以降の源氏一族が八幡宮信仰に寄ってその八幡宮が武家の崇敬と「必勝」の祈願対象となったのは清和天皇が造営した石清水八幡宮からの流れであるというのも腑に落ちます。いわゆる源氏という彼らの流れを別に「清和源氏」とも呼びますね・・・。

 

中学校国語で必出の吉田兼好、徒然草の中、特に著名で国語の先生が好んで試験の題材とした「仁和寺にある法師」(五十二段)の「ちょっとあるある」と納得するような話。

内容については非常に短いお話で「ふ~ん」と思う程度、各自お調べを・・・それでも要点を簡単に記せば、「長年行きたいと思っていた目的地にようやく行くことが出来たと思いこんで喜んでいたら実はそこは違う場所だった」ということで、「ちょっとしたことにも「案内」してくれる人がいるといい」というオチの話です。

 

私の場合山に上がると大抵はひとっ子一人居ないので自分の機転優先になりますが、思うに仁和寺の法師の場合はたくさんの人たちが参詣に訪れている(目的を持って)場所なので、いくらでも人に尋ねる機会はあったということです。

よってその失敗に同情はありましたが、今考えると、「周囲の人に聞けばいいではないか」ではないかということになって法師の行為はやはりペケですね。

 

気軽に声をかけて「私、しりませ~ん、教えてくださ~い」と言ってしまうことがどれだけ身の救いになるのか。

「善知識」に出遭うこと以前の我が身の立場でしょうね。

坊さんの形姿になると人様に窺いたてることが苦手になるのでしょうか。

何をするにしろ、初めての事、場所では特に、他者のアドバイスは有り難いものです。また、聞く耳を持ち続けることも必要ですね。

 

画像は仁和寺の門前にて。