「無量寿」と牧之原茶への思い入れ

恐縮するのは、それだけではありません。

阿弥陀如来の数ある名の中、「ど真ん中」ともいえる「無量寿」の名のりを本山を差し置いてそのお茶の名前にいただくということもかなり図々しいことだということもあります。

 

そもそも阿弥陀仏を御本尊として崇敬する寺院宗旨は真宗系だけではありません。浄土宗、時宗は勿論ですが、天台宗、臨済宗等でも散見いたします。

ただいつも記させていただいている通り、開祖親鸞聖人以来、わが宗旨は「一心一向無量寿仏」であるということです。

 

阿弥陀仏は他の神仏の頂点に立つ「仏の中の仏」であって、他の諸仏に参ることをせずともその働き、優位性をことさら聞いて、また「信心」というものを起こしてきました。

私にとって「一心一向」、やはり今風でいえば「オンリー1」なのです。

「阿弥陀仏」と口で漠然といっても意味は深いものがあります。仏像等の立体的物体、そしてあるいは絵像等(方便法身尊像)と比べてより「名号」(六字名号・・・九字十字名号)がベストの「阿弥陀仏」のカタチであるという思想が根底に流れているのです。

しかし、つきつめれば、その名号の御軸でさえ、一つのモノとしてありますので、真実の阿弥陀仏とは「形ではなくその働き」であって他力本願の思想からするに如来の働きを感じ取ったその「私の御礼」の言葉が称名(六字名号と同じ―南無阿弥陀仏)であるというのが親鸞さん時代からの教えとなります。

 

そういった如来様の名を今度の「茶」の名称としたのはそのような私自身の思い入れが深かったということと、牧之原茶を飲まれる方に「健康で長寿」が提供できるという気概もあったということでしょうか。

 

「蓮如上人御一代記聞書」の中に親鸞さんの善知識、御師匠の法然さんの歌が記されています。

 

「月影の いたらぬ里は なけれども  

             眺むる人の 心にぞすむ」

 

です。阿弥陀さまの救いを月の光とかけて歌っていますね。

 

「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」(観無量寿経)が出典ですがこれは親鸞さんの御和讃にもあります・・・

 

「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし

    摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」

 

「月影が届かない里は無い しかしその月の光(阿弥陀仏の智慧)を確かな光としてその存在の効果を理解したり認識しなくては分からないままである。よって月を眺めてそのように思う人々の心の中に芽生えて(発願)くるものである」ということでしょうか・・・

 

その歌を私なりに受け取って、阿弥陀仏の光の届かない場所は無いのであるから当然にこの牧之原のお茶であろうともその「救いの効果」は行き届き、そして育み、私たちの歩む道を何かの形として示されていることは違いないことだろうと確信、恭敬し、「無量の(はかりしれない)寿命」という有り難い御名をお借りするに至ったのであります。

 

無量寿茶の勝色の意匠は光は光でも月の光をイメージしているのです。

 

画像①②③は山科にて。①は東御坊(長福寺)。②は光照寺さん。③は南殿幼稚園。

④は京都の真ん中、紫雲山頂法寺、六角堂(場所はここ)の親鸞さん。