先発 次週 次回 解散 爆破 テロ 殺人 毒入り 犯行・・・ 

今朝起きて、寝耳に水の台風発生の報せ。

「この時期にとは・・・」と唖然呆然とはこのことですが、8日(報恩講)は予報円を見て「何とかなるだろう」と苦笑いしながら開き直っています。

これからそのコースについてやきもきする日々が続くこととなるでしょう。

 

標記の言葉の羅列、後に続くは「予告」の文字。天気の情報も「予告」ですね。

「予告」とは「あらかじめしらせる」ことですので、受ける方は何らかのメリットがありますね。事前に情報を得られるワケですから・・・。

発信する方としても

①情報の優位性を共有して役立ててもらいたい②観客等を誘因したい(宣伝)③社会あるいは個人を脅迫して自己の満足を発現させたい・・・等々です。

要は「予告」を発信するに「目的」というものがあるものなのです。

 

仏教にはそもそも「自死」についてその是非を論ずるということはありません。

釈迦のエピソードとして、やはり自死に立ち会う場面があります。重い病に悩む弟子の自死です。釈迦は四苦の無常(生老病死)を説いたのみでその是非について論じていません。

 

例外として鎌倉期に日蓮さんが自己の論を正当化する手法として念仏を非難し当流「七高僧」の一人、善導さんの自死について引き合いに出していました。ちなみにこの善導さんの往生について自死したという歴史的確証はありません。日蓮さんのみの発信です。

 

人間の歴史を見て行くとその中に必ずあるというのが「自死」

腹切りや特攻、バンザイ突撃の文化と伝統?を持つ日本人ですから、その点より深く関わりのある国民です。まぁそれらは目に見えない何か、特殊な強迫観念などによるものでしょうから今回アメリカであった「自殺予告」の自死とは性格を異にします。

 

釈迦や仏教のテーマは「自死」という究極の選択をとらなくてはならないほどに追い詰められている人の苦しみを「我が身の事としても受け入れる」ことですので、その結果として死んだか死なないかということは問題にしていないのです。

仏法でそれらの是非については語らないというのがそのスタンスなのでした。

キリスト経でそれこそ自死を「地獄に堕ちるべき蛮行」であると決めつけたとするイメージは後世になってからです。現代のキリスト教に於いてはそれらの思考を改めて、その行為については「釈迦と同じ」スタンスだと思います。

 

私の経験上、周囲に「癌の末期」と余命を告げられて(死の予告)苦しんでいる人、苦しんだ人は少なくありません。

自殺予告した方がこれまで味わった苦しみは計り知れないであろうし、周囲の者としても何とか快方に向かって欲しいとその治癒を望んだことでしょう。

自死について勧めることはありませんが、それに至った気持ちは大いにわかります。

ただし私が「その気持ち」を吐露された時は、必ずその心のスイッチを入れないで欲しいことを告げますが・・・

 

私は坊さんとして、その選択の結果に対する是非の判断をしないのは前述の如くですが、どうしても腑に落ちないのが今度の「予告」なのでした。

事前に「この日に死ぬから」という世界への発信です。

思うに「予告」というものにはその情報に何かの恩恵が付属しなくてはなりませんね。特に他者に対して・・・。

そうなると今回の予告とはいったい何だったのか・・・

 

YouTubeでアップされたその姿はハッキリ・スッキリした笑顔の彼女、ただ仰っている内容がただ尋常では無いワケですね。

しかしその画像はいかにもという涙を誘いそうになるようなピアノの曲のBGM。「演出」をも感じてしまいます。

ごめんなさい。「何て私は可哀そうなの」というアピールであるといえば気の毒かも知れませんが、その予告によって得られるものといったらそのくらいしか考えられないのです。

 

あの方より若い、あるいは年老いて「生きるべきか死ぬべきか」の判断能力の無い人はどうすれば良いのか、また「人間らしい死に方」と宣ってそれを実行されたようですが、実際苦痛に耐えて、与えられた人生を全うする人も多々いらっしゃる中、その行為を「それらしくない」と否定されてしまうべきことなのでしょうか。人生に「大きな痛み」があってはいけないのでしょうか?

 

私は「是非」はせずとも(それは正解がわからないからです)気持ちとしては仏の掌の上に遊ぶ命であると思えば、自然~じねん~におまかせするのがベストチョイスではないかと思っています。

また、自死の選択こそが「究極の自力」であることは違いないところでしょう。他力本願の教えからは反れるのではないかと。


当流的には「自由にできないわが命」でありますし「今、いのちがあなたを生きている」が宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマでしたね。

そして医学的に見て短期間に何かの奇跡的処方と巡り合うことも有り得るはずです。

あの方はあれだけ元気そうにしていたのですから、医者の言う「期限」など蹴飛ばして、もっと生きるための選択を採ってもよかったかも知れません。

所詮人は必ず死にゆくものだし、人生に苦しみはつきものなのですからね。

医者の言う「余命」は天気予報と同じですよ。

当山檀家さんで「半年宣言」を告知されて、3年目に入った方だってあります。

 

甚だショッキングで不信な事案でした。

画像は東本願寺、真宗本廟。阿弥陀堂と御影堂門はハコの中。