わき目も振らず突き進む まず大概は失敗に終わる

「突き進む」は勇壮と積極性を感ずる言葉ですが、大概はヤケクソの失敗談もニュアンスしますのであまりいい言葉では無いですね。他の反意、忠告等など耳の痛くなる貴重な言葉をも無視して、強引で我が物顔、あるいは「意表突かれた」者たちを極度に蹂躙するというイメージもあります。

戦時下、我が国の軍隊が選択した「自軍処理」ともいえる「バンザイ突撃」などというシーンも連想します。

 

大河ドラマでは老害秀吉の暴走、文禄・慶長の役、いわゆる「唐入り」が破綻しかかっているところですね。

その件が無ければ豊臣政権はもっと長持ちしていたかも知れません。「タラレバ」ですが大いに徳川殿を利することになりました。

 

時代が下って「15年戦争」(中国大陸から太平洋戦争)もそうでしたが、日本には古来から朝鮮半島あるいは中国(時代ごとにそれぞれの名称はかわりますが・・・)を対等あるいはそれ以下の「切り取られるべき」国であると見下している感があります。

現状もそれらの反動が出ているのか、決して良好とはいえない不毛の事案が散見されています。大人のつきあいを心掛けていただければと思います。

 

現在において彼らは日本を語るにあたって「侵略の歴史」と吹聴しているが如く、形容しているように見受けられますが、この2000年の歴史を俯瞰すれば、その言葉は案外当たっていることかもしれません。

昭和の日中戦争の前、遥か400年以上前に1人の老人の我儘ともいえる暴走から始まった「唐入り」も当然にその侵略の歴史のページを割くことになりましょうが、それ以前にも余りに古すぎて私たちの記憶から離れているそれらがありました。

 

日本書紀等への記載でその通りに真に受けて信じることはできませんが、古代史の中では新羅へ

の出兵をしたり任那という倭国の出張国(日本府)があったことは日本史の授業で教わっています。

その後は「白村江の戦い」から室町期の「略奪と私戦」である倭寇まで、途中鎌倉時代の「元寇」を例外としつつもかなりの頻度で「侵攻」の歴史を重ねていますね、倭国は・・・。

 

白村江の戦いの主体は大友皇子の父親、天智天皇です。

天智天皇がその戦いで大負けし、気分一新遷都したのが大津宮(近江宮)でした。天智天皇が亡くなって壬申の乱が発生するとそのあとを継承した天武天皇は飛鳥浄御原宮に遷都したために僅かながら5年間都が在った地ということになります。

 

「錦織」(にしこおり)という地が近江京のあった地と言われていますがこの字と読みは日本のプロテニスプレーヤーと同じです。そもそもこの名は機織り職人の一団から出た名で渡来人系の名ですね。

今の錦織は住宅地になっていますが、その一画のバス通りに近江京建築物の支柱が出たという場所が一部保存されていました(場所はここ ①~⑤)。

柿本人麻呂の歌が記されています。


 

近江京の推定値は今の近江神宮を思いがちになりますが、この神社の発祥は昭和になってからです。都中心の跡地というのは無理があるかも知れません。

ここは宇佐山という有名な山城のある山の麓であり発掘によれば祭祀場や古墳等の遺構が集まっているようです。

 

⑩はそちらの13号古墳(5c頃)の箱式石棺の中の頭蓋骨の図。

魔除けらしき赤色顔料が塗られていたとのこと(現地掲示板)。

ただし「魔除け」と決めつけるのは早いと思いますが・・・もっと多様な意味もあるかもしれませんね。

 

今のところ私は行きたい場所があれば「突き進んで」しまいます・・・