信長永禄と家康天正の頃が混在 小牧山城

まさか火山とは・・・、寝耳に水でした。

ちょっと気軽な山登り、御嶽山はこちら駿遠の方々もよく訪れる場所で私も当ブログにて「行きたい」と記しているほどです。

特に御世話人のF家などはちょうど1か月前に山登りしてここでしか買えない胃薬「百草丸」を購入して帰ったそうですが、お祭りの際の無茶酒の対処に絶妙だったと今一度紅葉見物を兼ねて訪問する予定だったと。

 

御前崎市の方が亡くなったという一報がありましたが、聞くところによればあのご夫婦はもともと御嶽山ではなく別の山に登る予定であったところを急きょ変更してしまい、この天変地異の災いに遭遇したとのこと。本当に運不運と言ってしまうことは簡単でしょうが、まるで死と言うものがあまりに身近で、「生」あることの偶然をより感じてしまう次第です。心よりお悔み申し上げます。

 

さてあのとき(ブログ 小牧山城からの御嶽山)は小牧山城址を訪れていて城址については記していませんでした。

天守風建造物というか城というか、近年の資料館が余り高くもない(標高86m)小山の頂上に建っています。

城址探しに窮して近隣の住民らしき方を見つけ「○○城はどこですか」などと端折って質問したりすれば「ここに城などありません」という応えしか返ってこない通り、世の中の方々の「城」とは「建物=天守閣」なのですが、私のそういう場合のそれは極論を言えば「かつて城のあった原野」=「城址」ということになります。

その思いが増してくると逆に城を模した資料館というものには当地小山砦の如くどうしても「偽・ニセ・似せ・贋」のイメージが先だって嫌悪感ともなってしまいます。

 

とはいえこの城のメジャー度はかなりあって牧之原のお隣、吉田町の小山砦のレベルにはありません。何と言っても織田信長が築いた城であり後の秀吉×家康の小牧長久手戦いでの主役の城でした。

「資料館」はともかく、城址は今も発掘調査が続けられています。私が訪問した際も調査が進んでいましたが、石垣の内部構造についてその中身を展示していました。

 

信長がヤドカリの如く居城を大きくしていく過程では清州から岐阜というイメージが強いものがあります。しかしそれはあまりにもスンナリと岐阜を手に入れてしまったからなのですが、実は清州から岐阜の間に築城し岐阜攻略の本拠とした城(永禄六年)が小牧山城でした。後の小牧長久手戦(天正十二)では家康方の先手に城が占拠されて、信長が手掛け、早々に放置させられた城を本格的堅固さを備えさせて秀吉軍を蹴散らすに大いに効果を得た城でした。

 

標高86mの山は市民の憩いの場。天気の良い日はたくさんの散策を楽しむ人が溢れます。役所の庁舎近くに大手道があります。①②とも庁舎前の道を隔てたショッピングセンターの屋上から。場所はこちら