持て囃される「グローバル」 イイ事?悪い事?

最近の流行りもの。「直葬」に「自然葬」そして「無宗教」。

お昼すぎの各局「バラエティ報道番組?」ではそれらをテーマにした企画が放映されています。

 

 これも際だった「グローバル」化なのでしょうか。「globe」とは「地球」のことですね。

一時的にその語彙は経営者、指導者の合言葉のごとく、呪文のように語られ私たちの耳に腫物を作ったものでしたが、意としては特に

①国際間の垣根は取り払わられた②縦よりも横のつながりが重視される③専門家、専門職(生産者)と消費者の関係が曖昧になる

といった感じでしょうか。

要は各個人がこれまでの規制や慣習に拘らず、自由に動き活動するということでしょうか。

その思想の根拠というものがそれらと同時に境界を取り除かれた如くに広がった情報の瞬時な拡散です。情報があってそれぞれが的確な判断をして自由に振舞うという形です。


 ようやくその魔法の言葉にもマイナスがあるということに西側世界は気が付いたようですね。

「イラク・シリア・イスラム国」(ISIS)などはその情報を最大限に発信して「成功」した例ですね。


 その我が国に広がる無宗教「終活」についても人生最期の選択肢として「個の幕引はコレ!」と今かなりのブームになっているのだと思います。


 私の如く、家が寺で使命は寺の継承、趣味が墓場放浪という生き方をしている人間としては、至極寂しいご時世となったと嘆くほかはありませんね。

まぁ嘆く前にそれだけ宗教に「魅力」が無いということ、それらを代表して座するのみの坊さんの姿をよく振り返って見ろとご指摘を受けそうです。


 世の中の流れには抗うことはできませんが、私なりに「グローバル」を考えるに、「パワーシフト」(世界の流儀は①暴力→②経済力→③知)の理論の如く、これから日本を含む世界を牽引する思考とは③知の時代に変化するかもしれないという考えですが私はその通りであると信じています。


 「知」とは「文化」であって私の世界で言えば、「歴史と宗教」ですね。

日本には日本独自の文化があってそういった発信すべき材料は数多あるはずです。

それら文化を今一度大切に掘り起こして、発信していくという努力を怠ればいよいよ半世紀後は私たちの立場など無いに等しいでしょうね。


 画像は我が国の本格的グローバル化のスタート。

麻布善福寺境内にあるアメリカ合衆国公使宿舎跡掲示板です。

パワーシフトでいう①暴力と②経済力はアメリカに倣って「確立」そして「衰微」していきました。

その歴史を辿って次は③だとすれば私どもが携わる「文化と宗教」が主体になるはずなのですがねぇ。社会が①と②を未だに未練を抱いていては私どもの怠慢も相まってうまいことシフトは進まないでしょう。