戻りたいこと戻したくないこと いろいろある 京の伝説

洛中(京都)のど真ん中を南北に縦断している大きな道路といえば、堀川通と烏丸通。

京都の街を「鉄の車」で自在に走るにはまずこの道の感覚を頭に入れる事から始めます。

 

 私は、東本願寺が烏丸通に面していることもありますが、母親の姉二人が烏丸通りで東本願寺の「詰所」(旅館)の「おかみ」をしていたこともあって、気が付いた頃から京都にあればこの大きな道を祖母らに連れられて本山へお参りしていました。そのようなこともあって特に親しみ深い通りです。

「鳥と烏」の区別がつかない頃でした。

 

 母親はその「詰所」があった数件先の数珠屋の主人とは顔見知りだった様な事をかねてから語っていましたので、私の「数珠」の新調や修理はいつも「上洛」の時を待ってそちらのお店でと決めています。

 

 東本願寺に対してお西の方といえば、その通りをそのまま南下して行けば「大阪」へ向かう大幹線道路の「堀川通」に面しています。

その通りの名は・・その名の通り、「堀川」という、そう川幅の広くない川と並行しているからですね。突如として二条城を過ぎたあたりにどこかに消えてしまうように感じますが・・・

 

 とにかく京都上洛不慣れの皆さんは、お東と御所が通り沿いにあるのが「烏丸」、お西と二条城があるのが「堀川」と覚えて2本の経線を引くことから始めましょう。

その後にそれぞれの「条」(横線)を入れていきます。

 

 さて、堀川通を大谷大学や大徳寺のある北大路通から京都駅方面に向かうと一条通と交差します。

その通りの脇を流れる堀川にかかる橋の名が「戻橋」。

「一条(條)戻橋」とも呼ばれています(場所はここ)。

 

 今の私たちは「橋」と聞けば何とも無く耳にし、口にしていますが、古の時代、人々のその言葉のイメージというものは少し違っていたように思います。

 

 語源は「所」の区別、「端」からきています。「橋」というその2つの空間を繋ぐ構造物となったのです。

「一所懸命」に生きた私たちの御先祖様の思考もそうですが、戦略上でも「渡るか渡らないか」は「行けるか行けないか」で「行ったきりか還るのか」・・・「生きるか死ぬか」のイメージともなります。

戦略的に「要衝」な場所となるわけですね。「一所」を止む無く捨てての逃走時(新天地を求めての)は追捕されないよう、橋を落して逃げるなどということもよく聞きます。

 

 そもそも「川を渡る」ということは古来よりしばしば国境等を河川で仕切ることが多かったため「川向う」と言えば別世界の異次元だったのです。

 生死感においても「橋」は意味深です。

もともと善導大師の「二河白道」(にがびゃくどう)という浄土と地獄を分かって、「彼岸―此岸」を渡すといった感覚もありますが、その世界に一歩足を踏み込んだら違う世界での生活が始まるのだという、イイ意味悪い意味色々混ざり合って一つの覚悟のような言葉だったような気がします。

そういう意味でも単純に橋は「要門」だったのです。

 

 現代は橋の往来は自由気ままであり、川に橋が架かっていることは「当たり前」の世界です。

私たちは今その橋を渡る時、そのような「意味」などを深く考えることはないでしょう。 

 鈴ヶ森処刑場近くの「泪橋」などという呼び名も一種独特の生死の境や「別れ」を示唆しているように感じます。

 

 京都の処刑場としても、六条や三条河原の方が有名ですが、かつてこの堀川の戻橋下でも処刑が行われています。

そういう意味でも古くから川とそれに架けられた橋に「生と死」の空間を結ぶものとして「何か」を思量したのでしょう。

 

 元々は平安時代(918年)に、菅原道真の失脚に一枚噛んでいたと噂のあった文章博士の三善清行の葬列がこの橋にさしかかった際、修行から帰京した息子の浄蔵が棺に納められた父と再会して読経をすると雷鳴(道真の崇り?)とともに三善清行が息を吹き返したというのが伝承の発端です。

 

 今も稀に「死んだと思われた者が実は生きていた」などという話はゴロゴロしていますし、医学というものが殆ど陰陽道や呪い系の時代にあって当時の「死亡診断」などかなり怪しいものがあったと思います。

 

 驚くのはその死からの蘇生があたかも不吉を連想させるところですね。三善清行は真面目な学者のイメージが強かったそうですが、彼が出世してから(道真左遷後)の人々の目が厳しく、もしかして疎まれるようになっていたのでしょうか。

 

 また、源頼光の家臣、渡辺綱が美女に化けた鬼(これも現代でも出没します・・・男は騙されやすい)にうまいこと言われて襲われ、逆に鬼の腕を切落としたという話は有名ですが、その鬼と遭遇したというのがこの戻橋といいます。

 

 その後もずっとこの橋についての「験担ぎ」は続いて、大人たちは子供にこの橋には近寄らせないよう言いつけたり、「実家に戻らせない」という意で嫁入りの際、この橋を渡らせなかったそうです。

 逆に、戦中の出征兵士などは生きて戻ってきてもらいたいと願って、わざわざ遠くかやって来ては、息子たちにこの橋を渡らせたそうです。

 

 今はコンクリート製のちっぽけな橋となっていますが、堀川通を走っていてこの橋の前、往来の激しい交差点に停車した時、昔の人の銘々した物にはそれぞれ歴史があるものだとしみじみ思うのでした。

 道路側に立つ柳が風流です。