吉田港に流れ込む湯日川は初倉の湯日丘陵から 湯日城

当地相良より吉田・大井川方面に向かって走ればこの川の名を目にするでしょう。その次に現われる大井川に比べれば地味な川(2級河川)ですがかつては小山城の外堀となって城の要害化に一役買っています。

家康が小山城を包囲した際もこの河川と湿地帯に手を焼いたことでしょう。


 この湯日川の源は昨日記しました初倉の湯日という場所になります。

静岡空港の北側、谷を隔ててスグの場所、養勝寺さんの裏山ということになります(場所はここ)。

湯日といえば勝間田系の支城と言われている湯日城がありますが、古文書等文献に登場するわけでもなくあくまでも城塞の跡は多少残るようですが、どのような立場の城だったかは不明です。



 何しろ多少の土塁らしき遺構は残るもののほとんど「何も無い」らしいという事前情報を得ていますので、近くを通ったとしても登城してみようとは思ったことはありません。

 「何も無い」というのは史跡指定がされていないことから、開拓開削の手が入って、耕作地となっているそうです。特に各曲輪らしき平坦地は大きく形状が変わっているようで、既に見捨てられた遺構。島田市も今更発掘して調査する気も起こらないのかも知れません。


 湯日城は小山城から諏訪原城のある牧之原台地に上る入り口の街道筋にありますので武田期にはその兵糧搬入の中継基地と使われたと考えるのがスムースでしょう。


 この辺りの城について語るに「三日月堀」の有無を指摘する方が多いですね。他にも「特異な馬出し」もありますが、それがあれば即「武田流」として「武田の息がかかっている」と。

しかしそこのところ、この城もそうですが、私は疑念でいっぱいです。


 当地には池が多いですね。たまたまそのような形を残す池の様な堀のような窪みがあれば「ハイ武田流」はあまりにもこじ付け的。まぁ立地条件(小山と諏訪原の中間)から言って武田方の誰かが入ったことはまず間違いが無いところですが、どうもその「三日月」、過去に「ありました」と言われても偏屈な私は「ハイ、ハイ」と臍を曲げたくなってしまうのです。


 小山城に造成された「三日月堀」もそうですが、私の好きな高天神城搦め手側にある「三日月」の表札には、「ホントかよ」と思ってしまいます。アレはただの水溜りのように感じますね。


 さて、私の「湯日」のイメージは何と言っても増田実氏の記述にある姉川七本槍の一人「中山是非助」を思います(高天神関係武将)。その彼の知行地が湯日でしたので、勝間田氏以降の湯日城の住人であった可能性は大ですね。

中山は天正二年に高天神城開城時に小笠原長忠とともに東退(武田方)しています。


 湯日城は別名「養勝寺城」とも呼ばれています。画像④は墓地から見た裏山。⑤は向かいの「静岡空港」台地(左)、湯日城の台地(右)です。⑥は街道からの登り口。

冬場にでも真面目に登城試みたいと思います