いつ、誰がつけたのか「死人川」・・「鯱岩」

本日も超ローカルな内容。

そして其の地の周囲でも60歳以上の年配者のみ知り得る事。

当地、牧之原市の私の居住する波津から南西に行って須々木―地代―落居―地頭方の地名は折に触れて記しています。

私が波津から地頭方にかけての海岸が特に好きだからということもありますが、本日は標記の2つの地名について。

 

 地名と言ってもいたって不確実で「川」の名は殆ど俗称で「岩」は地名としては既に消えたようなのも同然ですね。

しかし公文書では未だその名称は使用されています。

防波堤の嵩上げの護岸工事がここ数年行われていましたがその完成報告書です。報告書はまたその高さについて「津波対策は万全」と記しているようですが、想定津波高を6~8mにしていますのでその「万全」、果たして疑問に感じます。

 

 読み名は「死人川―しびとがわ」と「鯱岩―しゃっちゃ」で地区としては「地頭方」のさらに南側の「新庄」です。

「新庄」はその名の通り近世になって開拓された地でしょう。

現在は地頭方から御前崎に抜ける海岸沿いの道がありますが、かつてはその様な道路は無く海岸線はもっと陸側にあって砂浜の延長の如く、背後には遠渡坂(おんどざか)の丘陵が迫っている場所でした(場所はここ)。

 

 萩間スズキ工場のために造られたといわれる御前崎港と牧之原I.C.を結ぶバイパスの新庄のトンネルから御前崎港に向かう南国風の道など半世紀前は海の中でした。

 

「鯱岩」(しゃっちゃ)は以前は海のランドマーク、おそらく鯱の背びれのように見える奇岩が海中各所に顔を出していたといいます。その岩のある海の際あたりの土地を「鯱岩」と呼ぶようになったのだと思います。この名前でしたら相良の町内の方でも御存知の方は多いでしょう。私も中高とよくこの地名は耳にしています。

 

 「かつて」あったという鯱の奇岩はあるとき浚渫船が来て撤去して行ったそうです。以前は「死人川」あたりから富士山方面に向かって点々と奇岩が顔を見せていたといいます。

 

 おそらく港の新設と水路の確保が理由ですが、風光明媚な景色と先祖伝来の名称の根拠をも破壊してまでやることか不思議に思います。地図上で確認いただければと思いますが、眼前の港は国体のヨット競技用に増設されたものです。このヨットハーバーから地頭方港まで防波堤を伸ばす計画があったそうですが、反対運動が起こって中止になったといいます。

 

 河川における砂利採取やダム建設もその要因として考えられるところですが、この港や御前崎港の改良、太平洋の波浪から守るために延伸された埠頭、護岸工事が地頭方だけでなく相良の海岸をはじめ駿河湾各地の海岸侵食、海岸の後退、砂浜の消失、海産物の減少として大きなため息の中、指摘されているところです。

 

 このように人の計らいというものが、当初は良かれと思って為された事であっても大きな流れとして結局は自らの生活や環境を痛める結果となっている事に抱く喪失感ももはや諦めとして思うのみなのですが、果たして黙認していていいことなのでしょうか。これもまた大いに疑問に感じます。

 

 さて、「死人川―しびとがわ」です。

これは地図にはてっきり川らしきものが記されているとは思えなかったほどでした。小さな、そして「川」などとは呼べぬただのドブ川の如くの暗渠・排水溝が残るばかりでしたので・・。ところがグーグル地図を拡大して驚きました。

しっかり「青い線」が記されていたのです。

 

 その不気味ともいえる名は、やはり想像通りです。

大井川や吉田・榛原・相良で落水遭難した人が頻繁にこの川の下に上ったといいます。

中には大井川川根での水難者がこちらで発見された例もありました。

 

 私は先般の水難の例もありましたが、駿河湾のこの辺りは、風向や一見される海水面の流れとは逆に地頭方方面に流されることを聞いて知っています。

今は、地頭方の港が大きく護岸を設けていることと、海岸が後退しているためにこの川の河口にまで流れつくことはあり得ません。

 

 以前は「落居」という地名について、その名の発祥を鎌倉御家人「比企氏」が「比木」に入った場所から「落ち人」「都落ち」した人との関連性も考えましたが、漁などで船や岸から「落水した人」が「打ち上げられる=浜に居る」場所を「落居」と呼んだなどとも考えられるでしょうか。現住の皆さんはきっとお怒りになるでしょうね。

 

 そのように古い地名は結構ストレートで今聞けば違和感ありありです。しかしその古い地名というものを私たちは大事にして行かなくてはなりません。本当の歴史を歪める「キラキラネーム」への変更などもってのほかですね。

「鯱岩」という古い呼び名を「すでに岩も無いことだし」、「幸岩」に変えてしまおうなどという噂も耳にしたものですから・・・。

 

 画像①の赤いブイの方向に岩が顔を出していたといいます。②③に国体のために造られたハーバーが見えます。露出しているチャート(岩石)の堆積の様子から想像を絶する地殻変動がかつてあったことを推測させますが、かつて「地頭方村」を名のっていた頃は砂浜が広がっていて、この様な岩は砂の下にあって今の様に露出していなかったそうです。

 

 地頭方辻にある一力さんの奥さんが言うにはその頃の海岸では、地頭方村(地頭方・落居・笠名・堀野新田・新庄)5地区や他の地区との対抗運動会が催されたそうです。

今はそのような砂浜は見る影もありません。

 

 ⑥の丸印と⑦のハッチが今の「死人川」。

スロープは古くからあるもので地区の小舟を海岸に降ろすためのもの。今は誰も使う人がいません。⑧が死人川を遠渡坂方向に向かって撮ったもの。坂が見えます。⑨は海方向の死人川です。草が覆っていますがここから道路の下を海まで暗渠が繋がっています。

 

 ⑩は道路沿い、嵩上げされた護岸。皮肉にもこのようなコンクリート製造のために川砂を採取し過ぎた結果が海岸浸食を招いているとも言われています。