「七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり~」

標記、聖人の「浄土和讃」より。

その和讃の続きが、

「十方来生きはもなし 講堂道場礼すべし」です。

 

 「七宝講堂道場樹」とは「キラキラ輝く(七宝)荘厳の場」の事で阿弥陀さまが説法を行う場所ということです。いわば御堂や御内仏ですね。

そして、方便とは・・・今、その語を使う際は大抵「嘘も方便」という言い方が主で、それからすると「方便」という言葉はいわば「嘘」そのもののこと。

 

 ところが真宗で「方便」と云えば「阿弥陀さま」のことを指します。その際は「方便法身」とか「方便化身」といった記し方をします。

後段、十方(八方+上と下で十、転じて「そこいらじゅう」)から「来て生まれる」者は無量―はかり知れない。そのような場である「講堂道場」(本堂や各家庭の御内佛)なのだから手を合わせて礼讃しよう・・・ですね。

 

 それではこの「方便=阿弥陀さま」理論を私なりに。

 

 極端な例を持ち出しますが、真宗にはイスラム教に似たような教えがあります。

共通な点を記しますと、イスラムの絶対の神はアッラーの神唯一であって他の神を認めません。そして真宗には多少の鷹揚さはあって多様な仏の共存についての承諾はありますが、やはり阿弥陀さま以外の仏への帰依は不要であると説きます。時宗と混同されたのち一向宗と呼ばれるようになった由縁でもあります。

 

 さて、大昔に入試で覚えた英熟語で「beyond description 」―筆舌に尽くし難い 描写を越えている―、という語を丸暗記しましたが、アラーの神も浄土世界の主宰者、阿弥陀さまの説法の様子も、言葉だけでは理解できるものの、各自思い描く想像を超えています。

もしかすると現世で聞く者たちにとってはまったくの「NO IMAGE」の場合もあり得ます。

 

 仏教やキリスト教の親切なところは、それではいけないということで、その「 IMAGE」を補てんしてくれるところなのです。堂には仏像(御本尊)が、教会にはキリストやマリアの像が立ちますね。

 

 ところが真宗の場合はそこのところに自己矛盾を感じてしまった親鸞さんの思考がその「方便」という言葉に乗り移って、継承されているような気がします。

 

 視覚に訴える方がインパクトがあることは昔から「百聞は一見にしかず」(「漢書―趙充国」)などと云われているように実際にこの目で見てイメージすることが何に於いても効果的であることは当たり前なことです。

 

 ただし親鸞さんの心の中には自身が実際に見て確認したことでは無く、経典に記された、阿弥陀さんへの「信心」をベースに描いたもので、その姿が現前に顕かにされ、真実ではあるのだが、より分かりやすく、認証するために出現された故に「方便化身」という言い方をされたと思います。

 

 イスラムのアッラーの方は上記の如く「方便」ですら像の建立は否定しています。

それは徹底していて「偶像崇拝の禁止」として広まっていますね。ロシアの家庭(正教会・カトリック教会)に飾られている「イコン」(聖像・聖画像)のようなものも無いようです。

 

 バーミアンの仏像をタリバーンが破壊していましたが急進的な宗派によってはその考えは徹底しています。

ポイントはアッラーという絶対的信仰対象がある中、その像や絵像を複数製作すれば「唯一」では無くなってしまうという点ですね。

 

 真宗は親鸞さんがそれでも「方便」として視覚化しようと仏像を認めましたが徐々に名号に代わって行きました。

それは今も本願寺のお墨付きある名号や絵像として残っています。それらを多数発していわば「視覚化」を進めてきた歴史があるのです。

 

 アッラーの一神がダブルスタンダードを嫌って偶像崇拝を禁止したのですが、真宗門徒のお内仏の中身についての決まりごとに、「位牌、遺骨、写真、お札、他宗の仏を入れない」というのはまさにそれで、一仏(阿弥陀如来)との混同をタブーとしたためでしょうね。

 

 他をブチ壊してまで排除するという思想が釈迦以来の仏教には有り得ませんので他を承認するという寛容さがあります。しかし、真宗はあくまでも「一向専念無量寿佛」ですので、戒律とは言わないまでも、御内仏の荘厳についての取り決めについては少々煩く言うのです。

 

 私がご門徒様の家庭にうかがって一番に苦慮するところですね。おみやげものから御札、写真、各種グッズが所せましと並んでいます。

坊さんは余計な事を考えます。これからあげる読経は「阿弥陀さんだけ」ではなくひょっしとして御内仏の中のドラえもんにあがっているのでは・・・と混乱してしまうのです。

 

 そういえば最近になって当地区で行われる法要に「人形供養祭」というものがあります。徐々に大々的に行われるようになったのですが、当初私にも声がかりました。

しかしそれについては「宗旨的にムリと」お断りしたという経緯がありました。お勤めする際に如来さんが居ないのはどうしても自己嫌悪に陥るのです。

 

 別に南無阿弥陀仏の名号を念頭に思い描いて正信偈をあげればよろしいのでは、とご指摘を受けそうですが、雑念だらけの拙僧の頭では、眼前の斎壇にあがったドラえもんやサリーちゃんたちに対峙することはある種耐えられない滑稽さを感じてしまうのです。

 

 イスラムと真宗は戒律の有無、そして徹底的に排除するか、鷹揚かの違いで、基本的に「一向」という点では同じような気がします。

 

 画像は当山に残る東本願寺第十七代法主真如(1682~ 1744)の裏書のある阿弥陀如来絵像。

「方便法身尊形」(ほうべんほっしんそんぎょう)の字が見えます。