「城を枕」だけが道に非ず 横田甚五郎の抜け道

最近は高天神城には散策に訪れるもののブログからは遠ざかっていますね。ということで・・・

 

 せっかく今川家の凋落に便乗して立ち回り「棚から牡丹餅」的に小笠原一統の高天神城が手中に入った家康でしたが、武田信玄、勝頼の海洋に面した旧今川領(駿遠)への執拗な領国化と維持への野心は強いものがありました。

当初は信玄との取り決めで安泰だったはずの大井川以西をも浸食しだしたその勢いは結果的に、武田の戦線拡大となって、信玄の死による上洛戦の失敗に始まる武田家の滅亡に繋がったものの、浜松在城で信長の後詰を前にロクな手合せも無いままこの城を手放してしまったことは大いに悔いが残ったことでしょう。

 

 勝頼の方も自らの「力攻め」のみで勝ち得た高天神城でしたので(父信玄が為し得なかった)気持ち的にはそうは簡単に諦められなかったことはわかりますが、一旦は領国経営をコンパクトに立て直す意味でこの城を捨てて駿遠を撤収する力量があれば、武田家滅亡の憂き目は無かったかもっと後に伸ばせたかと思います。

 

 長篠(天正三年1575)の大敗北により多くの家中知恵者が亡くなってしまい、勝頼は「迷走の若輩の将」となってしまったことはやはり武田の悲劇への序章だったのでしょうか。

 

 信長の甲州征伐に嫡男信勝とともに天目山で果てたのは天正十年(1582)の3.11です。

結果論ですが信長が本能寺で討たれたのがその年の6月2日ですので、駿遠へのこだわりを捨てて「選択と集中」が為されていれば3か月程度とは言わず数年の戦闘維持はできた筈です。

 

 本願寺が本能寺の変に九死に一生を得たことはどちらかでも記していますが、織田軍はあの件の際はどちらの役に出ている武将も畿内に「おっとり刀」で撤収していますので・・・。

 

 要は武田勝頼の駿遠への食指と未練は、信玄以来の悲願でしたから致し方ないものの、その欲こそが武田家滅亡に導いたといっても過言ではないでしょう。

 

 毛利や上杉が強すぎる秀吉を傍観した末に、なびいていったように「天目山」がなければ武田勝頼も秀吉に取入って歴史を変える事ができたかもしれません。

 

 さて、天正二年(1574)高天神城主小笠原長忠の開城東退によって高天神城は横田甚五郎尹松が城番に入ります。

以後今川方からコンバートされた尾張鳴海城でお馴染みの岡部元信と両頭立てで高天神の守将となりますが、この横田家は岡部とは違って、生粋の武田家恩顧の武将です。

 

 武田家五名臣の一、横田高松(たかとし)の娘婿、横田康景(綱松)の長子で原虎胤の孫でした。

横田高松は「砥石崩れ」で討死、父康景は長篠で討死と代々戦場の露と消えています。

 

 代々同様の死にざまと思いきや、敗色濃い高天神では同僚の岡部は二の丸下、林之谷に討って出て討死していますが、横田甚五郎は勝頼にこの状況を知らせようと脱出を試みます。生きて還るということです。

 

 このルートは激戦の二の丸の背後に抜ける尾根道で高天神包囲網のうちでは山岳部であり最も手薄な方向となります。

この逃走ルートが「甚五郎の抜け道」です。

現在は通行を遮る看板とロープが張ってありますが数年前まではその尾根と急斜面を辿ることができました。

ただし自己責任でチャレンジすることはできると思います。あくまでも自己責任です。

 

 かつて2度ほど散策しましたが(冬季です)、小笠山砦を南からストレートに攻めるルートの方が遥かにリスクがありますね。

素直に驚くところはこの道を徳川の追手を振り切って(敢えて見逃したとも言われますが)、信州経由で甲府まで辿りついた横田の体力と精神力ですね。

 

尚、勝頼はその生還に感動して褒美を用意したそうですが甚五郎は辞退しています。

 

 その後武田家家臣団重用傾向にあった家康はこの横田を旗本として抜擢しています。

 

画像は高天神城「馬場平」とその奥の「甚五郎抜け道」前の看板。③は馬場平の下方にある西の丸跡。

④は甲府、躑躅ヶ崎館裏手、横田高松屋敷跡。

上図は高天城の看板、○印が馬場平ですが、この名称からすると馬場の様な平坦な地とでも解した方がいいかも知れません。

一城別郭の城域、最高位の場所で馬の出入りには不向きですね。

本曲輪の方で水の不足を悟られまいと馬に米を掛けて馬を洗う様子を演出したという話はある様ですがこちらに馬を置く意味が判りません。それとも甚五郎の抜け道から騎馬が駆け下りれるようになっていたのでしょうか。

想像するも無理だと思います。

 

 また、図には「西の丸」とありますが、二の丸と混同しているようにも感じます。

西側に張り出して、この城のネックとなった二の丸が記されていないのは解せませんね。尚矢印は搦め手からの登城方向。