横須賀七人衆 久世三四郎 三河一向一揆組

高天神に関わる「七人衆」に「高天神衆」とも呼ばれた「姉川七人衆」がありますが、高天神城包囲網の付城の中で最大でその主城だった横須賀城に詰めた大須賀康高配下「横須賀衆」も「横須賀七人衆」があります。

 

 左側の「高天神城武将案内」にも触れていますがやはり筆頭は「首取り源五」と呼ばれた渥美源五郎勝吉ですね。他の六人もベスト7人に選出されたほどですから、渥美同様戦働きに殊に群を抜いていたでしょう。

 

 渥美はのちに下土方の屋敷に隠居してしまいますが、横須賀から紀伊藩に下った者たちの他、家康直参の旗本になった人も居ました。

 

 久世三四郎広宣の父長宣は西三河、矢作川東岸の額田郡(岡崎市)に住していた時、世にいう三河一向一揆~永禄六年(1563)~初期家康(20歳)の特筆すべき危機の際、家康に反して一揆側に付いて戦い、討死してしまいます。

当時二歳の三四郎は母親と流浪の末、横須賀城近くの大渕という地に移り住んだといわれます。当初は横須賀城はありませんので、高天神の小笠原家を頼っての遠州入りとのこと。

 

 其の地には、久世ケ谷や久世川という地名が残ってるそうですが、定住後はスグ(三歳)家康家臣の大久保忠吉という人に養われるようになり、他の一向一揆側に付いた武将もそうであったように、当然の如く一揆加勢の件については家康から赦されます。
まぁ父親の問題でもあり、何と言っても二歳の頃の出来事の責任は取りようもありませんが。

 

 戦国期に於いては子の運命は親の所業の表裏の結果によって決まる時代でしたので「親子ともども打ち首」などは当たり前の事でしたが、ことさら三河一向一揆の後処理に関しては家康は寛大でした。

 

 三四郎は十六歳になって大須賀康高配下となって十八歳で高天神城攻めで初陣、人より「前へ前へ」斬り込むような血気盛んな威勢を見せてその名を轟かせました。

 

 一向一揆以来、こっそりと真宗を貫いた家系もありましたが、一向宗転向組は浄土宗、禅宗、日蓮宗に改宗していきます。

当初家康は一向宗に懲りて、真宗を禁教にしたくらいですから。

 

 三四郎は父親の広宣の菩提を弔うために天正十六年(1588)にこの大渕の地に久世山浄泉寺を創建しています(場所はここ)。墓域には久世一統の供養塔が並びますが墓石は板碑と笠塔婆形式となっています。

 

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コメント: 2
  • #1

    河東村出身者 (土曜日, 11 2月 2017 18:47)

    旗本となってこの地を離れている割には、お墓が充実しているのが不思議だったのですが、
    新宿法人会の記述で、なんと広宣の三男が老中まで出世して大名家になっていることに気づきました。
    http://www.shinjuku-hojinkai.or.jp/07yomoyama/yomo66.php

    いや、田沼家のような例が他の遠州関係でもあったのですね。
    (田沼家よりもこちらが先ですが)

  • #2

    今井一光 (日曜日, 12 2月 2017 07:42)

    ありがとうございます。
    大学の先生の論文も郷土史家の研究の積み重ねといっても過言ではありませんね。
    久世家のこのあたりの部分を見ていると、兄弟は①生まれた順番も後位であっても②何が起こるかわからない③よって真面目に励め④ただし埋没零落の憂き目も大いにある
    ということがわかります。
    いや、人生には必ず「チャンス」があるともっと前向きに言った方がイイかもしれません。