訪れるたびに変わり続ける諏訪原城

東京ドームの面積が46,755㎡。113,305㎡が国指定の史跡となっている諏訪原城。いかに広大な地域が城址として残されているのか、わかるというものです。

まだまだ城の領域は木々で覆われていますので発掘調査をしようと思えば凄いことになりそうです。

 

 前回の諏訪原城近況から、数か月、兵どもが夢の跡をちょい散策。

 小夜の中山を走る旧国道1号や1号バイパスから相良・御前崎方面に向かうバイパスのショートカットとなる道(城域を東海道が通過する要衝でした)が諏訪原城の前を通るため頻繁に通過はしていますが、その日はお天気ということで何となく立ち寄りました。

 

 木々の伐採工事と発掘調査は一段落していて、夏草の繁茂でこの城のウリの大規模な堀の遺構が確認しずらいという難はありますが、わかり易い標識や新しい看板、新駐車場の設置そして旧駐車場の整備等色々と変わっていました。

 文化省からひきだしているはずですが島田市は資金が豊富のように感じます。あれだけ整備しても散策者は私独りっきり。

駐車場はちょうどお昼時で営業マンの昼寝用の駐車が目立ちました。「城址観光以外」は遠慮願うの旨記されていましたが・・・。

 

 前回、城域内にある墓地が「無縁」の可能性が強いことを記しましたが、江戸期以降の地主系家系の墓地だそうで、時折花が添えられているということを聞きました。

そもそもこのように発掘調査がされる以前は私有地でしたから。

二の丸曲輪は一面茶畑でしたね。

 

 当諏訪原城について、新情報といっても信憑性については責任を持てませんが数点・・・知らなかったのは私だけだったりして・・・

 

 以前現説にてあれほど礎石の発掘からの薬医門についてインパクトある解説と門の復元を予定しているというお話を聞いていたものですからまず復元される門は「二の曲輪中馬出(青矢印)」、画像は⑦、推定「木橋」の向こう側になるとは思っていましたが、その後の発掘が進み、門の礎石は他にも出土され、来年以降の薬医門復元の1号は

二の曲輪北馬出(赤矢印)になるとのこと(画像⑨⑩)。

⑨画像は使用する材を自然乾燥させているといいます。

材料はタダ。敷地内の伐採材を使用するようです。

 

そして、未だガイドブックにも記されていない井戸の跡。

これは新しくできた看板(画像⑤)の前あたり、外堀の斜面にあります。勿論案内板等の設置はありません。

 

 しかし三号堀が水堀とありますが、俄かには信じられませんね。

この台地上でどこから水を引いたのか不思議です。と言いながらも当地の古老の話によれば、昭和初期の頃には水があってそこで泳いだともいいます。

 

 天気がスカっと晴れたお昼すぎ、鳥たちの声に迎えられ、遠く下方の金谷駅を出入りするSLの汽笛を聞きながら森林浴の散策は少しばかり贅沢ですね。

12時20分頃から50分頃まで蒸気機関車の汽笛が諏訪原城に響きます。暫し現実世界から離れる気分もおつなもの。

本丸など東側丘陵先端から富士山が見られれば最高でしょうね。あいにく梅雨時の湿気でその日の富士山は顔を出しませんでした。

 

 以前から「諏訪原城」について記していますが(左側ブログ城址)発掘調査が進むにつれていよいよ「武田の城」というよりもはや「徳川の城」で固まってきつつありますね。

本来の武田の城は本丸部分のみで、あとの殆どの遺構は徳川時代になってから追加されたといいます。

ひょっとして牧野城・牧野原城と名称を変更した方がいいかも。三日月堀も徳川時代に作られたのでしょうかね。