本日7月12日 盂蘭盆会法要

「餓鬼が餓鬼に施す」と口の悪い暁烏敏が言った盂蘭盆会。

もうそんな時節となりました。

 台風騒ぎでやきもきしましたが、おかげさまで当地は無傷でした。

他所様では甚大な被害があったことを思うともろ手を挙げて喜ぶことは不謹慎ですが、当初はコースは遠州直撃も予想できただけにゆっくりとしたスピードと勢力を保ったままで通過されたらどうなる事やらと心配していました。

 

 今一ついいニュースとしては「エルニーニョの確率は低くなった」との気象庁の予報の転換。「エルニーニョ=冷夏」はストレスが倍増しますので。クッキリ晴れた青い空を希望します。

 

ニュース報道を見て腹立たしく思って、「○△ハーブ」の蔓延に憤慨して、偉そうに法整備云々を記しましたが少し反省。

理由は

①三面記事に目くじら立てるなど仏法にまみえる身にそぐわない

②人間の罪そのものと考えれば事詳びらかに「法律」を持ち出すことは、仏教本来の道ではない

③殊に私どもの宗祖は「悪人正機」を私たちに案内、譬え犯罪者であっても救いの道は残されているはず

④お前はいったい何様だ

というようなところでしょうか。

 

 しかし、そう反省の閃きはあっても、やはり私は「この程度」であるということの認識と自己承認、そして「それでもOK!OK!」と追認してくれているようにも思える阿弥陀さんの姿を観じて、「しょうがねぇなぁ」と苦笑いしているといったところです。

 

 真宗の基本は「私の心」への「自らの問い」だと思います。滝に打たれたり、百日回峰、千日回峰を行って「身体」ともども突き詰める方法―修行―は取りませんね。

 

 近世になって浄土真宗の開祖、「親鸞」を哲学者としてそう呼ぶようになったのはその由縁です。哲学とは詰まる所「自分とは何か」ですからね。哲学というと難しく感ずる方がいらっしゃると思いますが、その入門書としてチャレンジするのなら「歎異抄」を読まれることが近道なのかも知れません。ただし私は軽々しくそちらを紹介いたしましたが、私のはただの「知ったかぶり」の類でしょう。

 

 前述の暁烏敏の師匠、初代大谷大学の学長清沢満之についてはその生誕150年を記念したイベントが続いていますがこのほど、大谷大学では「清沢満之エッセイコンテスト」が開催されます。800字以内ですから、肩肘張らずに気軽に応募ください。

 

 当山ではその企画に皆さんが参加いただけるよう冊子を用意して檀家さんに配布いたします。

「まんしさん」の思いに少しでも近づければと。

 

 台風一過、法要のあと上った地代の墓地から相良方面と御前崎方面。うっすらと富士山が顔を出しました。午前中ほどクッキリしていましたが・・・。今年初、ニイニイ蝉の声を聞きました。海岸に出ると、返しの風でオフショア。