明智光秀の、うっとおしく雨の多い天正十年皐月下旬、その葛藤、精神状況等その心中を計る事はできません。
そして俄かに芽をもたげた「その反意」をいかにして抱き、彼にとって取り返しのつかない事件となったあの「六月二日」を迎えたのか。日本史上最大と言ってもいい謎のひとつです。
「反意」とは天下布武寸前の織田信長へのもの、「六月二日」は「本能寺」のことですね。
余りにも突然に発生したかに見えるその事件によって日本の歴史は大いに変わりました。
ブログでも幾度か記しているように、この「六月二日」の件が無ければ、相当の高確率で、「本願寺」は無かったことは推測できましょう。当然ながら私の家は勿論、私自身もこの世には存在していなかったことでしょう。
いうなれば「明智光秀のおかげ」、殲滅覚悟、風前の灯で戦っていた一向宗門徒と本願寺にとっては「棚ボタ」ではあったものの今でいう「逆転満塁サヨナラホームラン」を打ったような気持ち、いやそれ以上、絶対に有りえないことが起こって「助かった」のですから当時の人たちはひたすら「阿弥陀如来にたすけられた」とその奇跡性を思わずにはいなかったでしょう。究極の命の恩人となった人ともいっていいかも知れません。
ひょっとして天皇家でさえも信長の手で絶たれていた可能性も捨てきれませんし。
その光秀の心変わりとは何か。織田家でも新参ながらも筆頭に近い出世頭の彼が何故に翻意を。とこれまで歴史家の中で色々な説が語られ、また、ドラマ、劇中で描かれてきました。
その「色々な説」については各自お調べいただくとして、
まずその本命は怨恨説。劇中ではまずその線で演じられています。
「怨恨」だけでは今一つ説得力に欠けますので、あと何かを加えます。まずは戦国時代で、当然と言えばそうなのですが、本願寺率いる門徒衆はじめ反信長で結束していたグループはたくさんありますので、それらのうちのどちらかとの内通もあったようなことも臭わせているのもパターン。
NHK大河ドラマではこれまでずっと「怨恨説」。
光秀が信長から受けたという恨みつらみの積み重ねのうち、各種エピソードを数点強調するなどして結論に持って行くものです。
今回の大河でも、例に漏れず怨恨説の採用。
安土での家康饗応の失策を強調し、とどめが国替えでした。
国替えといっても近江・丹波召し上げのうえ、中国毛利領「切り取り次第」の仰せですので、光秀の後の無い切羽詰まった感と、信長の天皇排除の台詞ニュアンスを描いていましたのでそのスジ(皇室貴族系)への肩入れのセットでしょう。
以前の大河では、明智光秀が戦勝饗宴で信長に浅井朝倉の箔だみ頭蓋骨で酒を飲まされた事がスイッチになっていたようなのもありました。
そのように色々な説が飛び交っていた「本能寺」のその光秀の理由につい最近「コレで間違いない」というくらいの一級資料が発見されました。
最近は「本能寺信長鉄砲乱射事件」もあったりして、大河のアドリブ性に期待していましたが、きっと撮影が既に行われていて時間的に、撮り直し差し替えは不可能だったのでしょう。
さて、その確定的理由の根拠というのは、今年の6/23に発表された林原美術館所蔵の古文書のことです。
以前から「長宗我部内通説」というものがありましたが、その説を相当後押しするような書面(石谷家文書)が発見されたということです。
信長の本能寺の滞在というものは天下布武の総仕上げ、中国と四国の両面作戦の総指揮です。大河では備中高松城の水攻めや中国大返しの秀吉独壇場、光秀自体も秀吉の後詰を命ぜられての中国への出立が名目でした。
ついつい「四国」は盲点だったかもしれませんね。
これまで、四国長宗我部との交渉を描いた「本能寺」は見たことがありません。ということでこれら資料からは信長―長宗我部の間に折衝役として立たされた光秀とその家臣、多様な角度からみたその苦悩というものが伝わってきます。
今回の発見でこの四国説を披露するストーリーでの「明智光秀大河」が俄然現実的になったような気がします。
画像は近江坂本の西教寺(場所はここ)。
山中長俊の墓で記しています。
比叡の恵心僧都(源信さん―親鸞聖人指定の七高僧の一人)がいらした横川(よかわ)-への上り口にあり、「称名念仏」をその柱とする流れ。当然に御本尊は阿弥陀如来です。
信長の比叡焼き討ちで一旦は焼失していますが、明智光秀が彼の地に知行を得てから再建され、明智家の菩提寺になっています。
⑤は客殿ですが、殊にいい味を出しています。
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天道一光 (木曜日, 08 11月 2018 08:16)
信長憎し
今井一光 (木曜日, 08 11月 2018 23:16)
ありがとうございます。
仏敵信長・・・