たまたま殺傷→紛争、そして思わぬ恩恵 生麦

戦時中は一番酷い時期でしたが戦後復興、住居・工場・道路の建設工事によって移動もしくは廃脚された歴史的遺構は数多くあるでしょう。

最近であっても、「現場判断」により闇に葬られたような遺物もあることも推測できるところです。

 

 昭和38年、東京都中央区の日清製油本社ビル改築工事現場(酒問屋 鹿島清兵衛屋敷跡)から天保小判1900枚、二朱金約78000枚が発見されましたが、この手の「大発見」を除いては殆ど「現場判断」であることが推測できます。

 

 掘削工事に遺構出現はつきもの。そこで発見者は現場の工事担当者ということになります。「わからなかった」で済みますし、本当にわからないのは致し方無いことですね。

 遺構の出現は工事業者にとってマイナスです。それを世に晒して工事遅延となれば損失に繋がってしまいますのでできるだけ表に出さないというのが暗黙の了解でしょう。

 

 そして見つけた小判貨幣の如くの「お宝」の場合は下請け工事業者にとってのお楽しみでもあるらしく自らのポケットマネーとすることなど「当然」であるような事を聞いた事があります。まぁ「黙っていれば分かりはしない」でしょう。

 

 建築解体を請け負っている方も話していましたが、現場から出た「お宝」を自らの所有物とすることは「当然」のようなことを言っていました。

 

 特に古い家屋の解体は付随する「幸運」があるそうです。

最近は古民家ブームということもあり、発注者からは離れたところで古材を扱っている業者に買取りを折衝、綺麗にパーツ取りする解体方法を採用したり、時として作業中に屋根裏から小判や骨董品を発見したこともあるとのこと。

そしてお宝とは言えない墓石、遺骨等はだんまりを決め込むのですが、「あとあとの面倒」を考えればそうすることが一番なのでしょうね。要はできるだけ表に出さないということでしょう。

 

 鈴ヶ森の処刑場も第一京浜の工事によって隅の方に追いやられていましたね。あの辺りで最低10万の人を処刑したとして埋葬場所も近くにあったはず、今更「ここでした」と言われても困りますしね。

 

 東京と神奈川を結ぶ国道に第一京浜・第二京浜・第三京浜と呼ばれる道があります。第三京浜は有料道路で私がかつて世田谷周辺に住んでいた頃、横浜港南の「奥の墓道」宅を往復するに使用しました。当時、ベンツの覆面パトカーがいるという噂が飛び交っていましたね。

 

 横浜川崎、多摩川を超えて大田・品川辺りの人ならば当たり前に知っていることですが、国道1号線が第二京浜で、第一京浜は国道15号線です。それでいて旧東海道といえば街道筋に設置された鈴ヶ森がありますように「第一京浜」ということににります。

これはこの辺りに関わりの無い人が地理的錯覚に陥る要因でもありますね。

 

 この第一京浜は旧東海道と並行して作られた車両の通行を重点に作られた道ですが、「鈴ヶ森」に並び江戸末期の遺構として「生麦事件」があったことでも知られています。

鈴ヶ森から六郷(多摩川)を超えて川崎を通過、曹洞宗の本山の總持寺のある鶴見を超えた「生麦」周辺(場所はここ)です。

 

 文久二年(1862)イギリス人「力査遜」リチャードソンが島津久光配下の薩摩藩士に斬り殺された事件です。

英国人4名が騎乗で当時の松並木の街道を通過中、江戸から薩摩に下向する所謂「大名行列」と遭遇したというものです。

 

 英国人にとってその辺りの「作法」、行列先導の「片寄れー、よけろー、よけろー」の掛け声を聞いて下馬して脇に避けることなど知る由もなく、その事は到底無理解で行動し、結果「列を乱した」罪で無礼討ちになったというものです。

 

 執拗に追われて止めまで刺されたリチャードソンはその場で絶命しましたが、残りの二人は負傷、一人は無事で命からがら逃げ切りました。

ちなみに止めを刺した人は海江田信義でしたね。

当然に外交問題となって翌年の薩英戦争になったという図式です。英国は幕府から賠償金をせしめてさらに艦隊を率いて薩摩に向かいました。

 

 薩英戦争は小日本国のさらに小国の薩摩が世界に名だたる帝国艦隊を率いた英国と互角以上に戦ったという事実が「日本手ごわし」のイメージを植え付け、また却ってこの戦争が以降の薩摩―英国との親交の深まりに繋がって討幕に至ることとなってそして、「海軍の薩摩」という原形となりました。

 

 現在、以前からあった国道15号第一京浜沿いのキリン生麦工場入口にあったリチャードソン憤死の碑は、湾岸線生麦と第三京浜を結ぶ「横浜環状北線」の高架工事で移動させられています。

碑が元あった場所はリチャードソン一行が行列と遭遇した場所からは600m以上も横浜寄り、必死の逃走と攘夷に徹したしつこい追捕が分かります。

 

 画像は仮に設置されている石碑。

第一京浜(③画像の信号交差点)の旧道沿いにあります。

⑤が旧道沿い、「きたせん」(環状北線)の工事の様子。

⑥の遭遇現場はこれより江戸の方向。現在は住宅が建っています。