「元始 女性は太陽であった」 らいてう

雨の中のゴミ拾い、ブラジルで日本の若者が評価を得ました。

あの時は「グラウンド上」は悲惨でしたがスタンドの観客については世界から賞賛の評価を得ました。

 この手の運動は新潟のスタジアムから始まったそうですが、今回の日本人を知らせる世界への名刺代わりになったようです。

嬉しいやら、もしやああいう場合にサッサと席をたちそうな自分の暗い心を思うと恥ずかしくもなります。

また一つ気づかされました。

 

 さて、村岡花子(視聴率好調のNHK連続ドラマの「花子」)の如くの髪型と着物の女子たちの集合写真。

こちらは、明治四十五年(1912)、東京の大森海岸にて催された「青鞜」(その前年に創刊)という女流文学誌の新年会の一コマ。

 

 大森海岸といえば鈴ヶ森ですが、こちらで火炙りの刑に処せられた「八百屋お七」(井原西鶴「好色五人女」)など無念の思いで死んでいった女たちの弔いも兼ねていたのかも知れません。

 

 標記は「青鞜」("Bluestocking"の和訳)創刊に主宰の「平塚らいてう(らいちょう) 本名 平塚明(はる)」が寄せた文章の表題です。

今でも女子(特に高校生)はストッキングへのこだわりがあって流行などもあるようですが、当時はその外来の靴下に関し、「黒では無く青」に女性の気概と独立心を投影しようとしたのでしょうね。

「青鞜」は当初の『女流文学の発達』という主たる方向性から『女子の覚醒=気づき』に変化していきます。

 

 「らいてう」の名は高校日本史には必ず出てくる名、「変な名前の書き方」とスグ覚えたものです。

その手の運動となると社会主義思想と共通し、時として活動が先鋭、アンダーグラウンド化して、政府の厳しい政治活動への統制を受け、また平塚自身のプライベートの噂やら婚姻によって徐々に下火になっていきました。

 

 しかし彼女ら~今でいう「ぽん女」(日本女子大)OB~の画期的活動は戦後の女性地位の確立という大きな成果に繋がるベースとなった歴史があります。

 

 どこかでも記していますが、何しろ当時の日本というもの、「女の地位」など無いに等しいものがありましたからね。

端的に言えば仏教経典に出てくる「女とは」のイメージは「五障三従」(ごしょうさんしょう)ですからね。

これは「五種の障(さわ)りと三種の忍従」のことを言うのですが五つの障りとは端的に一言「仏になれない」ということです。

 

  そして三つの忍従が

①幼いときは親②嫁いでは夫と家に③老いては息子に従う

ということです。

何事にも女は家に居ることが肝心で「しゃしゃり出る」(参政権・・自由・平等等の権利の主張)ことなどあってはならないことでした。

 

 たとえばつい最近まで女子サッカー選手の移動は「エコノミークラス」だったとか相撲土俵に女は上がれない等々スポーツ界など、数えれば色々出てきそう。

そう思うとまだまだこの社会、女子活躍の糊代は残っていますね。

 

 ただし女性の活躍の場が増えれば当然に少子化の解消とは逆行するでしょう。

子育てと家事は共通の時間ですからね。

だからこそ女性社員を受け入れる会社の側は出産後の地位を確約したり、子育てを任せられる保育のシステムについて国が面倒を見る必要があるのです。

 

 こちらに日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室に「元始女性は・・・」の原文がありますので貼りつけました。
最後に連名がありますが、与謝野晶子、森しげ子(鴎外の妻)、国木田治子(独歩の妻)の名が光っています。

こちらでは「らいてう」は「明子(はるこ)」の名になっていますね。

 

 写真を見ると今風の美人です。

画像の紹介に(高校日本史Bの教科書より)彼女の前に「長沼智恵子」(チヱ)とありますが、彼女は②の「青鞜」の表紙絵を記した人です。

のちの高村光太郎の奥さんですね。ということは詩集「智恵子抄」の「智恵子」氏。

こちらでは青空文庫から光太郎の短編「智恵子の半生」が出ていますのでそちらを。