焼津坂本の古刹林叟院 小川法永長者の墓

焼津市小川漁港前の信香院には、過去に起こった自然災害で寺が破損したという言い伝えがあります。

  お寺の歴史にある「永正十四年(1517)の暴風雨」という記述を地域の災害年表と照合すれば、「大井川流域の大洪水」と合致します。

海が近いだけに「地震―津波」の構図も閃きましたが・・・

 

 その災害によっての復興が長谷川正長によって為されて信香院さんのスタートとなったわけですが、さらなる伝承にその信香院と対になってあったもう一つの道場の話があります。

 

 文明三年(1471)に創建されたという、「林雙院」(寺伝によれば「林」は道場、「雙」は二つの意)ですが、言い伝えによれば明応年間(1492~1501)にたまたま来訪した人の「将来の水害」を予知というかアドバイスを信じ、高草山の麓の坂本の地に寺を移動したとのこと。

 低湿地帯で津波の被害も度重なる水害も伝わっていることは当然に伝承されている場所だけにその人のみのいう事を聞いて立ち退いたわけではないでしょうが・・・

 

 その「林雙院」が現在の「林叟院」さんになったというお話です。そういえば信香院さんに残る長谷川正長墓碑の戒名に「林叟信香大居士」とあって二つのお寺の名前が入っていました。

 

 長谷川正長は法永長者といわれた小川城主長谷川政宣の孫です。

長谷川政宣夫妻の墓がこちら「林叟院」(場所はここ)にありますがやはり政宣は林叟院開基と記されています。

画像③「永正十三丙子歳(1516) 當山開基林叟院殿扇庵法永大居士 六月朔日」

④は正室「當山開基長谷寺殿松室貞椿大姉」

やはり小川の長谷川氏とのかかわりが深い寺でもあります。

 

 ここで「林」という字が出てきたわけですが、「宗」の字からの類推をして小川の長谷川一統と結びつけた高天神城御前曲輪に入った「斉藤宗林」を記しましたが、この人の名にも「林」という字があります。

 

 名前に「林」という字が入いる例はそう見ませんので「丸子―高草山―小川」のラインが高天神城斉藤と大いに関連があると思われます。

 

 斉藤宗林と斉藤正長は亡くなった日が同じで三方原合戦であることもありますが一族郎党もろともの負け戦となったか、もしかすれば同一人物であったという推測もアリかも知れません。