「規制委」とは笑止  闇討ちと呪詛

法治国家であるからこそ、「まぁまぁ」と抑止力、自制心というものが働きましょうが、もし幕末だったら飲み屋や宿屋の裏で待ち伏せした刺客に斬り殺されたとしても同情できないような陰湿で卑怯なことかもしれませんね。今回の件。

 

 最近は、新法整備など民意に反対意見が潜在的にあることが予想される場合、政策側で「民主主義」を強調しつつその批判を吸収する受け口として、「第3者による委員会」的機関を作り、あたかも「十分に検証されている、やるべきことをやった」というステップを踏んでから「結論が出たのである」という「持って行き方」をとるという手法が流行りもののようです。

 

 私のような阿呆はそのトリックにコロッと騙されてしまって口を開けて傍観するのみですが、今回の件は露骨で空っぽのお頭でも理解が可能です。

 

 原発推進の元、「政治主導で原発が再稼働の運びとなるのは批判が多い」ということから作られた「原子力規制委員」。

 

 「規制」という語を冠していることから「厳格に」対処してもらうことは庶民にとってイイことなのですが、このほど内閣は、原発再開に厳格審査をしていた島崎邦彦委員長代理(地震学)の退任と新しい委員を発表しました。

 これは反対派を引きずりおろして原発の推進派の学者と首を据替えたという図式であることはあからさまです。

 

 島崎さんの任期が切れたあとの「委員会主導」が暴走しだすことは目に見えていますね。そのような意図があるからそのように動くのです。要は「そろそろいいだろ!」のお膳立てで、言ってみれば「出来レース」の御献立。

もともと任期に関しても不思議で、容認派は5年、厳格派は2年というダブルスタンダードのような感がありましたね。いかにも不思議で卑怯な構図を思いますね。

 

 島崎氏は電力業界やその配下にある代弁政治屋(傀儡)の「攻撃」(口撃)と嫌がらせに最近は憔悴しきっていたといいます。

 今度の新任の「センセ方」、業界から「援助」を受けているような人でしたら、世の中の仕組み、相当汚いとしか言いようがありませんね。

推進派の議員さんの弁もありました。

「島崎さんがいなくなって、ああよかった」とのこと。

 

 この国は実は「フェアプレー精神」にはほど遠いです。

賛成意見もあれば反対意見もある。その両者が歩み寄って何かに落ち着く、というのが学校で教わった民主主義。

都合の悪い奴、本当の事をいう奴は排除して、あとは井戸端会議、好き勝手にやりたい放題の図式が見えています。

皆の意見を聞いて方向性を決めるという合議というものが下手な国民性もありますが。

しかし収斂するところは「選んだのはお前だろ」ですね。

 

 この分では司法にも圧力がかかることも良く聞くお話でこの間出た地裁の判決(福井地裁 大飯原発3、4号機 は運転してはならない)も上(上級裁)に行けば元の木阿弥になることも予想できます。

やっぱりカネが裏でモノを言っていることはうすうす感じます。

 

 このような事を記してはいますが、昔から「10円(100円)あげる」と云われてホイホイお手伝いをしていた自分がありますので、もし札束で頬っぺた叩かれたりしたら、人は「母親をも殺す」悍ましさをも控え持つ身といいますので・・・、恐ろしいことです。

 

 卑怯でズルくアンフェアに暗躍する輩は「憎い」ですね。

これ一般論。そして憎悪というものも人それぞれ。

 そして「憎悪と赦し」どちらが大切なスタンスであるかも人は分かっていながら他者を憎み憤怒、瞋恚します。

 

 現代では「誰でも良かった」という殺傷事件が時折見聞きされていますが、昔はそういった対象はピンポイントでした。

「怒りがあった、社会に仕返ししたかった」というのもミニブームのようですが、よく考えてください、すべて社会に責任を負っているのが政治家なのです。彼らもそう言っています。不満があったら彼らに直談判すべきです。

 

 ちなみに今一つ、ある意味社会に責任を負うべきは寺でもあります。聖徳太子以来、仏の教えを伝えてきたはずなのですが、今、社会がオカシイと感ずるのはお坊さんが手を抜いているからかも知れません。

 

 よって手頃で身近にいる通行人や見ず知らずの人、自分より力が弱そうな人を対象にするのでは無く、お寺や国会議事堂に棲まう人たちに文句をぶつけてください。

 

 これは先方様にそういう広大な受け入れ方があっての話ですが・・・。

まあ、直談判はきっと出来ないとは思いますが、刃傷沙汰はいやはや今風ではありませんので、文書にしたためたり、書面を配布したり、ブログで意見したり、一時的な鬱憤を晴らすなら色々方法はあると思います。

 しかし毎度の通りですが私の寺はいつであっても門は開いていますよ。

 

 血気勝って料理屋の裏で「待ち伏せ」して葬ってしまうなどは江戸時代までのこと。

戦前の5.15事件、2.26事件そして1960年に日比谷公会堂で起こった浅沼稲次郎暗殺事件等日本政治史に於ける汚点もありましたが・・・。

 

 とにかく「刃物で黙らせる」のはスマートでありませんので、平安・室町時代にそのような対象は「呪詛」(呪いのお祈り)して封じ込むというチャレンジをしたものです。

呪詛禁止の法など真面目に整備された時代もそれ以前にありましたので、かなり為政者が敏感になっている言葉でした。

 

  「呪詛」といえば鎌倉公方の足利持氏と将軍就任で一悶着あった「くじ将軍」足利義教が想い起こされます。

そのいざこざは永享の乱となって騒乱期に突入、退廃ムードが蔓延する時代へのきっかけになるわけですが、当時「呪詛」は反則行為でバレたら死罪になるほど厳しい咎を受ける時代でした。特にエライ人に対するそれは。

 

 元天台座主で還俗した足利義教はその噂(足利持氏と比叡山がグルになって自分を呪い殺そうとしている)を聞き付けて、近江京極、六角らを動かして圧力を掛け、結果比叡山の僧を斬首したことによって反発した比叡山は自ら根本中堂に火をかけ火中に残って死した僧が多数出たほどです。

 

 義教の怒り具合からして当時その「呪詛」というものがどれだけありがたくないものかがわかるというものです。

 

 「呪詛」とは神仏への祈願ですが、特定の人を指名して呪いをかけて何らかの災いがおこるようにしてもらう儀式です。

儀式の催行だけですから実害は無いのですが「呪詛されている」ことに大いに不快を感じたようですね。

 

 精神科の方の話を聞いた事がありますが、黒魔術、余談ですがサンタナの「ブラックマジックウーマン」を思い出します(名曲でした・・・)、呪い、藁人形などの「呪詛」の効果は「呪詛されている当人に、呪詛されている事が実際に伝わる」ということから効果が発生するとのこと。

直接闇討ちでも「やるぞ、やるぞ」という噂が微妙に聞こえることから効果が現われるかも知れません。

相手がそのことに気がつかなくてはダメなのでした。

 

 現代における「呪詛」、この呪縛こそが「民意」であるべきなのです。

さあ、どんどん気軽に呪い倒していきましょう。

 

 浅沼稲次郎は演壇にて演説中に右翼の青年に殺されたのですが、その時の彼の話の冒頭が「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、全部伏せておいて、選挙で多数を占むると……」であったそうです。

その頃は刃物で黙らせたものですが、今は札束に変わっています。

 

 アメリカの「むかしむかし」(once upon a time)の「アンタッチャブル」(買収されない)がふっと頭を過ります。

日本人は薬物では無くこういう発想を真似してもらいたいですね。

いっそのことこの語を冠にいただく機関を作るのもいいかも知れません。しかし本家本元の機関はギャング・マフィア対策でしたが、今日本に必要なのは「カネで釣られない」かつ「対官僚、対政治家の意向を汲まない」ということになりますね。

 

まぁ最初から「そういうことは断じて無いのだ」という高慢ちきな性善説なのか変てこな詭弁を平気で吐ける厚かましさが政治屋(国政)たる由縁であることは間違いないところです。

地方で気張っている方々はたくさんいる中、中央の人たちはみっともないこと限りなし。

 

 アメリカ人は人間の本質というものを省みてその名を公の機関につけてそれを誇りにしたのです。

大嫌いな所もたくさんありますが、そういう点が私のアメリカ(というかハリウッド映画)好きの理由です。

 

画像は平家物語「殿上闇討」

              (てんじようのやみうち「平家礼賛」より)。

清盛の父忠盛が恨まれて闇討ちされそうになった段。

却って平氏出世のきっかけになったような事件でしたが・・・いずれ滅亡します。

そして新・相良郷土カルタの当山。