北国脇往還は北国街道のショートカット

人の流れとしての街道の整備はそれぞれの統治者の力量でなされますが、街道を整備すれば、不慮の招からざる侵略者の侵攻も安易にしてしまいます。

 そこで統治者は街道や宿場を整えながらも街道筋に関を設けたり要所には砦等を設けて連携を密にとって緊急時に備えたものです。

 

 漠然と「北国街道」(北国道)といえば、信州―越後方面を結ぶ街道(善光寺街道)の方では無く、京都から琵琶湖南を東海道そして中山道に分かれて越前加賀能登越後の北陸方面へ琵琶湖東岸を北に結ぶ街道をイメージします。

 小説・ドラマでも織田信長が朝倉義景や長尾景虎(上杉謙信)らの上洛を警戒したり、秀吉と北ノ庄柴田勝家との戦いが決定的になった場面など必ずと言ってその街道の名が出てきますね。

 

 またやはり、「都」には天皇が鎮座し、幕府将軍の花の御所があって、政(まつりごと)の中枢ですので、戦国大名ともあればその「京」という首都を目標に上洛して天下に号令することを夢見たものです。京に攻め上がった場合の防衛の意味でも「北からの脅威」にこの街道に着目したものでした。

 東海道の「どまんなか」でも触れましたが京都三条大橋から大津、草津まで東海道、中山道(木曽街道)に入って鳥居本宿(彦根市鳥居本町)から琵琶湖東岸から木之本を通過して越前に入ることとなります。

 

 この木之本は北国脇往還の分岐点として栄えた宿で、越前から琵琶湖沿岸、京都方面に用事が無く、東海道、伊勢方面に向かう場合のショートカットとして街道が整備されました。逆に東海地方から北国に至るためにわざわざ琵琶湖東岸を通過するということが無かったわけですね。

 

 賤ヶ岳の戦いの際、岐阜城の織田信孝を包囲していた秀吉が大垣から52Kmを5時間で駆け抜けた「美濃大返し」もこの北国脇往還を使用しています。

 

 ブログで記しました横山城も小谷城も浅井方がその街道筋に建てた城でした。

 

画像①北国脇往還「千人橋」に小谷城。②左虎御前山右小谷城。③小谷城