土中に隠されていた石田家の墓

推測ではありますが、石田家の関わりと思われる墓石群が石田の郷で発見されたのが昭和16年の事。

発見された場所が石田三成屋敷跡近くの八幡神社の裏手です(場所はここ)。

 

 近くには三成が幼少時代に過ごし石田家との関わりも十分に考えられる観音寺という天台宗の寺があります。

勿論もっと近隣には近江らしく真宗大谷派の徳明寺もありますね。

 

徳明寺の創建は元亀年間(1570~73)といわれますので、丁度三成が秀吉の小姓として取り立てられた頃です。

当家の廟所があったとすれば観音寺が本命でしょう。

 

 三成にとって最も大切な時期、関ヶ原の合戦直前期から教如上人追捕に力を注いで、その意を達せずに逆に自らが滅亡の道を辿ったのですが、皮肉にもその家臣団、地元縁故の者たちは教如の教え(現真宗大谷派)に傾注していったことがこのお寺の存在から分かります。

 

 石田町の石田一統の「残党」といえば気を悪くする人もあるでしょうが、関ヶ原以降「石田三成」は謀反人であり罪人です。

田中吉政の手によって捕縛されたのちは同様に敗走捕縛されていた小西行長、安国寺恵瓊らと大坂・堺・京都市中を広範囲に引き廻されて六条河原で斬首。「三尺高い木の上」に晒されました。

 当時日本国中で「石田」を口にするのも憚れる時代でした。

 

 そこで八幡神社の裏から掘り出された墓石、五輪塔残欠。

故意に破壊された形跡もあって無造作に埋められたのでしょう、墓碑には「永禄五年六月」「天正十四年正月十四日」等の日付や戒名が刻まれています。

これらが「石田家一統の墓石」と云われています。

 

 このように寺とは違う、「神社の裏」という今でも「密かさ」が連想される場所に埋められた墓石の存在は、関ヶ原以降さらなる「石田」系探索の手が当地に及び、その関わりを疑われてはかなわないと石田系もそうでない人たちも集まって村人総出で(観音寺から?)墓石を集めて、「神社」の裏に埋め、その関わりを絶ったのだと思います。

当然にその際は「石田」の名のりは捨てたことでしょう。

 

 此の地に墓石があることは村人の口伝であったようで「触ると障る風の忌避伝承」も残っていて、昭和48年になってようやくこちら「石田神社」に祠が出来て供養塔が建立されたとのことです。

 

 何故か5~6世紀頃の古墳石棺の蓋がこちらの墓石発掘現場に置かれています。「唐戸ばし」と呼ばれ、近くの朽木街道の小川に長い間掛けられていたといいます。

きっと三成らもこの橋に足をかけたことでしょう。

徳明寺さん近くには三成の産湯や三成の兄、正澄を紹介する看板が立っています。

 供養塔脇に三成の辞世の句の石碑があります。

 

「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と 

         ともに消えゆく 我が身なりけり」

 

 

 筑摩江とは故郷近隣琵琶湖の入江のことですね。