尾張は将軍位を争わず 徳川吉通

「その世界の名だたるベスト3」的に何でもかんでも「御三家」という語を使いますね。

しかし本来の「御三家」といえば徳川家別格の1尾張・2紀伊・3水戸の三家のことを言います。

 厳密にいえば時代によっては江戸の徳川将軍家が1番そして2尾張・3紀伊の三家だったり1尾張・2紀伊・3駿河だった時期もありますが、まず「徳川御三家」と云えば尾張・紀伊・水戸で間違いないところ。

 

 「御三家」は「三つ葉葵と徳川の名のり」が許された家ですが、要は本家断絶を回避させるためのスペアです。

未来永劫に渡って徳川の天下の継続を狙って念には念を入れ複数の家を分散させたものですね。

 

 また、御三家のそれぞれの家もその家の断絶のおそれを警戒して、さらに分家(御連枝~ごれんし)を置くと言った念の入りよう。そこまでくるとちょとばかり滑稽ですが、「家」というものに拘る当時の武家階級の「悩み」の一端がよくわかるというものです。

 

 「御三家」の筆頭といえばそれはまず格から言って尾張藩ですね。「尾張名古屋」はもともとは清州城が始まり。あの福島正則が関ヶ原の戦功で広島に移ってからの歴史の始まりです。

 

 家康の四男忠吉を経て九男義直が清州に入りましたがその後今の名古屋城に移り、私たちが知っている「尾張藩」が成立します。

 

 当大澤寺ご縁の成瀬家は当所より尾張藩の附家老職。

将軍家から見れば「陪臣」。三河以来の家康恩顧の家にもかかわらず、立場の不甲斐なさに相当の焦りを感じていたと思います。

犬山城を持った「城持ち家老」の状況が明治維新まで続き、何とか維新のどさくさに犬山藩を立てることに成功します。

「大名」の仲間入りをして喜んだのも束の間、「廃藩置県」でその地位も失いました。

 

 意外ですが御三家筆頭と云われた尾張藩は結局将軍を輩出することはありませんでした。

案外、今の名古屋の方でもこの事を残念に思っている人は多いそうです。

 

 標記は第4代の藩主の徳川吉通が語った言葉。将軍職に近かった人ですね。

将軍の地位を継承することに心を注ぐことよりも大御所から授けられた尾張藩を護ることこそが第一義であることを家訓としました。

 

 慶長十五年(1610)、家康の命で始まった尾張名古屋の城の天下普請、名だたる武将の中、外様で加藤清正の積極的な協力は特筆もの。

清正は此の地はもともと地元、そういう意味からも力が入ったのでしょう。「清正石」と伝わる巨石と人足が曳く「修羅」(しゅら)と呼ばれる木製の橇(そり)に載せられた石の上で指揮をとる清正の像です。現場には石と清正だけです。

 

 この巨石は桝形虎口に配されたものですが、この場所は黒田長政の丁場(受け持ち)とのことで、実際のところは加藤では無くて「長政石」の可能性が高いとのこと。

 

 いずれにせよこのような「馬鹿」が付きそうな大きな石をどうやって運んでこのような場所に組み込めたのか頭を悩まします。人足から中間管理職の想像を絶する苦労があったことでしょう。

また東南隅櫓と櫓からの図。最期の画像が天守最上階から見た御嶽山?