神奈川県中部以東御用達 さいかや

神奈川県の基地の街、横須賀から起きて川崎、藤沢などの駅前に建つローカルな百貨店といえば「さいか屋」。

神奈川中部以東の人ならばその名を知らぬ人は居ないでしょう。

逆にメジャーの部類とは言い難いため、こちら静岡県人等他県の人には知り得ないお店でしょう。

 

 「さいか屋」の商号は変更前は「雑賀屋」。

雑賀衆末裔の岡本傅兵衛という人が幕末の浦賀の呉服屋を開いたのが始まりといいます。浦賀での商売の大元、きっかけはやはり相良、田沼と同様紀州藩主の吉宗が八代将軍として就任したことでした。

 雑賀衆はその先祖の不屈で常に前向きな精神を受け継ぎながらもそれに誇りを持ってその名「雑賀」を名のりました。

雑賀衆は戦国期の畿内にあって、独特の団結の強さと向上精神から頭角を現して海運業(時として倭寇?)から鉄砲の輸入、製造、技術者派遣、傭兵として活躍した集団で、石山本願寺に加勢して、籠城しました。

 あの本願寺への付城、天王寺砦の応援に駆け付けた信長に鉄砲弾を撃ち込んだのも雑賀(鈴木)孫一と云われています。

映画「のぼうの城」で舟上で田楽踊りを舞う長親を狙撃したのも雑賀衆でしたね。既に雑賀衆が秀吉の配下として忍城まで連れてこられていたことを描いたところでしょう。信長には徹底抗戦した雑賀衆も分裂して、孫一等一部雑賀衆は秀吉に下っています。

 

 秀吉に交戦を挑んだ紀州の雑賀衆は秀吉に掃討されて全国にちりじりとなって離散したという構図です。

 

 商売の道に入った者はそれを屋号としたり、集団で移住した者たちが住む場所を「雑賀町」とするなどまさに彼らの気概を持った生き方の証としてその名を戴きました。この地区では牧之原市の勝間田川の東岸地区を「雑賀町」と呼んでいました。 

 

 「さいか屋」は多くの挫折を経験しています。

今は横浜銀行や京浜急行の支援を受けて再建途上ですが、私は元の神奈川県人として、紀州雑賀であの時、信長という最大の危機を乗り切った御先祖を持つ者同士として「さいか屋」を応援しています。

 

 縁者よりたまたま届いた品物が「さいか屋」の包装紙であったことから記しました。