「宸翰(しんかん)」とは天皇の直筆

武家の秘書役には武官である軍師と文官である「祐筆」がありますが、「祐筆」は発給書・安堵状など武家棟梁の命により文書の代筆を行う専門職です。

 

 そもそも武門の家に生れ、事によっては弓・馬・槍・兵法ばかりを幼い頃より叩き込まれれば、「字が書けない」という武士も居たということわかるような気がします。よってそういう場合は身近にいる坊さんを連れてきて文書を代筆させていました。

武家はそれに署名して花押を押すだけという発給スタイルです。

ここでも坊さんが重宝に使われていた時代がありました。

代筆やメッセンジャー、ネゴシエイターとして頭角を現した坊さんに今川家の雪斎や毛利家の安国寺恵瓊らがいますね。

寺の小僧あがりの石田三成なども本来は「祐筆」としての採用だったようです。

 

 ちなみに当山歴代住職の法名にはまず「祐」の字が付けられていておそらく「御先祖様は筆が達者だった」などと言う人がありますが、そもそもの「祐」の字は「人を助ける」という意味ですので「書」だけでなくもっと幅が広くなくてはいけないと思います。

なるほどそれは御先祖様は筆が達者だったことでしょうが・・・。

 

 まぁそれがどちらの意に適っているにしろ私には「祐」よりも「憂」や「愚」が似合っていますね。

私の方で「祐筆」を檀家さんの本多家、鈴木家にお願いしているくらいですから。

 

 天皇がそれらと同様に口述したものなどの公的な意思を誰かが記した文書は「詔勅」「宣旨」「綸旨」(りんじ)などと聞きますが、天皇自らの筆で書したものを「宸翰(しんかん)」と呼びました。あまり例は少ないようです。

 

 かつての私が大学入試の日本史にかけるウェイトは半端では無く、「徹底的に」がスローガンでした。

この教科だけは「満点」取らねばという勢いでバカの丸暗記を決め込んだのですが、これは私立文系の他の教科、英語と国語がまったく期待出来ないという理由がありました。

 

 その際、歴代天皇と在位期間を丸暗記したことを覚えています。歴史的事件当時の在位天皇の名を問われる設問も多かったことと、それを暗記することにより、日本史が立体的に把握できたからです。

 

 空しいかな今となってはまったく記憶の外になりました。

その歴代の天皇の中で、積極的に「文学」を修めた「学者タイプ」の天皇がいます。「花園天皇」です。

 

 「花園天皇」は表立って自筆の書や手紙を書いた人で、今も多くの「宸翰(しんかん)」が残っています。

天皇は仏教にも深い造詣があり、出家し妙心寺の開基となったことでも著名です。

現在の花園大学は勿論こちら花園天皇の仏教と向学の心を引き継いだ学校です。

 

 天皇は日記を記し読経や念仏にも勤しんだ仏教者であり、浄土三部経のうちの阿弥陀経について天皇が記した「阿弥陀経残巻」なども残存しています。

花園天皇はあの騒乱の時代に突入する後醍醐天皇の先代にあたり、譲位後の「杞憂」の書面等も京都国立博物館に所蔵されています。

天皇による「学道之記」の冒頭部分には学問についてこうあります。

 

『学問の目的は、ただ文字を知り、博学になるためのものではなく、本性に達し、道義をおさめ、礼儀を識り、状況の変化をわきまえ、過去を知り、未来に活用するところにある』と。

これは完璧です。私含めて現代人も耳が痛い!!

 

  大学入試の丸暗記。されど暗記せねば戦えぬ。

バカバカしくて空しいと思いつつも今年1年、そのアホらしいことを息子に無理強いすることになります。

 

 画像は花園天皇十樂院上陵と花園天皇画(Wikipediaより)。

陵門の宮内庁の看板によれば何故か「土日祭日」は閉門しています(場所はここ)。

 

4月5日土曜日の当山は勿論開門。

「春の法要と寺楽市」です。

雨降らず、風吹かずのイイ天気とれば仕合わせでございます。

4日小雨交じりの準備、皆さまご苦労様でした。