「戦争で死んだ方がマシだった・・・」

昨日の新聞紙上にもありましたが、原爆症の認定の有無について未だにもめている姿を晒しているようですね。

それはそれは、われもわれもとその「被爆者手帳」という医療等に関する保護を享受しようと無関係の人たちが無雑作に手を挙げられるのは国としても困るでしょうし、どこかで歯止めをかけたい気持ちはごもっともです。

財源が求められる話ですからね。

 

 そして普通の空襲と原爆とでは「変わりはないではないか」という意見もよく言われてきたことですが、やはり特別な放射性物質による被ばく後遺症やそれらに関わる未知なる疾病への対応は国が積極的に関与するのは当然だと思います。

 

 それにしても不公平感が噴出するのは判断基準ですね。

フクシマでもどこかで線引きされてその線の内側にいたのか外側だったのかで雲泥の差となることは知られた話です。

 

 さて、卑屈な勘繰りかも知れませんが「どうせ後先知れたものだから大目に見てやろう」的な感覚か、ようやく今になって被爆者としての認定がされるようになっているように感じます。

それにしても遅すぎます。

 

 何しろ被爆者の体内で進んでいる病魔というものは個体差もあって一概に「どうなる」と推測できるものでなし、特にその症状を相手に知らせて証明するなどということは一般人には不可能に近いことです。そして、「晴れて」その手帳を受け取って医療に関しての保障保護を受け取れることとなったとしても現実の病気との戦いは切実だったようです。

相良で奇遇にもその被爆者手帳を交付された方の息子さんからお話を聞くことができました。彼岸の入りにうかがったある家庭で、お内仏の前です。

 

 その方の父親は68歳で亡くなったそうですが、当時陸軍軍人として、たまたま広島の港に浮かぶ艦船の上で手旗の講習に同席していたそうです。

 そのとき広島に原爆が投下されたのですが、「運が良かった」のかも知れません、爆風で海中に投げ出され、その際の焦熱地獄からは逃れられて、おそらく結果的に船の陰にも隠れられたおかげで、何とか助かったそうです。

 そのあとに被災地動員の作業に向かう途中に、顔の皮がドロドロに溶けて顎から垂れ下がった子供に呼び止められたそう。

水の催促を受けたため急いで水筒に水を入れて戻ってみると、その子は田んぼの中に顔を埋めて既に亡くなっていたそうです。そのようなつらい体験を生涯話していたとのこと。

 

 何しろ長期に渡って彼を苦しめたのは、自分自身に及んだ体調の変化だったそうです。肺気腫と診断された体の重たさと、力が出ない辛さ、生きる切なさをつくづく思い知ったそうです。

発病の有無と病気の種類について、人は与えられたものとして何らの術は持たないのですが、その病気も相当の「苦しみ」が伴うものだったそう。

 被爆者手帳の交付は案外スンナリいったそうですが、問題は50歳を過ぎるあたりまでその「存在」を知らなかったこと。

長期に渡って看護される権利を享受できなかったということですが、やはり権利というものは申告しなければならなかったのです。

お国の方から「あなたはこの時ここにいらしたのでこういう申告をすればこういう権利が発生します」と個別に居住先を追跡して教えてくれるなどという懇切丁寧さは持ち合わせていませんね。

 そして晩年の数年間は入退院の繰り返しで、「多くの辛さ」から「こんなに苦しいのならあの時死んでいた方が楽だった」とも漏らしたこともあったそう。

月々の僅かな保障と医療費免除よりも健康であることの方が数千倍も数億倍もありがたいことです。

 

 苦しみは病気になった人にしかわかりません。

せめてあの戦争がなければそんな辛い思いをされなくて済んだといえるすべての人々にお国が責任を持ってケアする必要があるのです。もちろん国籍の差などあってはいけないことです。

お話をされた御当人もそのお子さんも、同等疾病の発現をおそれ、定期的な健診をされているとのこと。

時間の経過によって人体にどのような影響が現われるかなど専門家でもわからないことです。

 

半世紀以上前の戦争の後遺症は未だに続いていることを実感した次第です。まだまだ「戦後」だったのですね。

知らなかったのは私だけ。

 

 安芸・備後は安芸門徒と呼ばれる一大浄土真宗大国であったと云われていますが、あの時も無数の念仏が絶え間なく聞こえていたことでしょう。

  画像は私が蓮如さんの代表的な「白骨の御文(本願寺派では御文章)」(5-16)を初めて目にしたアニメ「はだしのゲン」。

正信偈の冒頭までも記されています。

②の画像は「mikuちゃんの日記」から拝借しました。