小田原総構 遺構は西から北にかけて残存

小田原城総構(そうがまえ)はスケール的に言っても大坂城や江戸城と比べて決して引けを取るものではないものと思われます。

西の早川と東の酒匂川を大外堀としてその距離と同程度の距離で北側を囲いました(位置関係)。

 

 戦国期の小田原城の位置は、現在のコンクリートの天守閣のある場所から東海道線の通る谷間を超えて西方の台地上(小峯に至る八幡山)であったのか、その台地から北側に続く、谷津という場所にあったのか本当の所、推測の域を出ていないといいます。

私は八幡山説がしっくりきていますが・・・。北条以前の大森氏となると有力説は小田原駅よりも北側です。

どちらも「城山」という地名になっている場所ですね。

 

 では現在の天守閣の位置は何だったかといえば(本丸の可能性も否定はできませんが・・・二城別郭)、おそらく出丸か何かだったかも知れません。

 

 現在は東部の酒匂川までの平坦地は開発が進んで住宅地となって目立った遺構は少々を残すまでですね。

もっともこれは江戸幕府の意向で、「江戸に向かった構え」は不要ということから早々に撤去されたものです。

空堀や土塁といったあきらかな地形的残存遺構は市街地にあって埋め戻され、多方面に利用されて消失するのが常ですが、比較的それらを目視、あるいは類推できる場所が多く残るのが北西部ということになります。

 

 今の八幡山に、ひと昔前までは小田原市民も殆ど知らないただのみかん山だった場所に忽然と現れた「関東学院大学」、そして地図で言う丹羽病院にかけての三角地帯は、アップダウンもあって開発の手があまり進んでいないエリアでもあり、散策中に小田原城総構の遺構にひょいとぶつかるような場所です。

ただし地域が広大で事前情報無しでハイキング、散策しても徒労となるおそれもあります。

 関東学院大学が出来たあたりは「ベタ混み」の土日の国道1号を回避して小田原駅辺りから荻窪、そして入生田・箱根方面に抜けるショートカットがあります。

みかん畑の間を走る林道で、かつては頻繁に通行しましたが、きっとこの施設の建設にあたって空堀等の遺構も、かなり壊されてしまったかも知れません。

 

画像は小田原市教育委員会小田原城総構